夢の爪痕｜リアクション

夢の爪痕

　は、と短く息を吐き、朝鳥さゆるは目を覚ます。
指先が、つま先が、体中のありとあらゆる箇所が痛みに悲鳴を上げていた。
ぼんやりと、輪郭のはっきりしない疼痛は我が物顔でさゆるの身体を蹂躙する。
肉体の痛みは我慢していればいずれ去ってゆくが
悪夢は甘く優しく、遅効性の毒のように心まで腐らせる。
　さゆるは、緩慢な動作でベッドから身を起こした。
美しい素肌を覆っていたシーツを無造作に引き剥がし投げ捨て立ち上がる。
素足を下ろした床には締め切ったカーテンの僅かな隙間からこぼれる日の光。
睡眠薬の入ったピルケースに空のペットボトル。
それから適当に脱ぎ散らかした服も散らばっていた。
　昨日は睡眠薬をいくつ飲んだか、よく覚えていない。
悪夢を見るくらいなら、もう少し多めに飲んでおくのだった、と
疼痛をはらんだ頭で考えながら、床に散らばった服を足でかき分けながら進む。
全身に纏わりついた気持ちの悪い汗を一気に流してしまおうと
さゆるは疼痛に耐えながらシャワールームへと向かった。

　悪夢の残滓を洗い流すため火傷しそうなほどに熱いシャワーを浴び、
バスルームを後にしたさゆるはもう一度部屋の中を見回す。
最愛の人の隠れ家だった、いまはがらんどうのワンルームマンション。
暮らしていくのに必要なものは揃っているのに、生きていくために必要な人がここにはない。
……ここにいたくない。さゆるは唐突にそう思った。
虚ろな心の赴くままに適当に髪を乾かし手近にあった服を着て、マンションを出る。
　五月の新緑は、爽やかな風を浴びながら一心に腕を広げている。
しかし、さゆるにとって季節の移り変わりは、
あの人がいなくなってからの時間を計る物差しでしかない。
新緑も、光る風も、晴れ渡った空も胸に痛いだけ。
街を歩けば、物憂げな表情を浮かべたワケあり美女に寄り添う者は誰もいない。
声をかけてくるのは親切心の下に下心を滲ませた行きずりの男たちばかり。
普段ならひとときの享楽に逃げ込むことも考えるが、今日のさゆるは生憎とその気にはなれず、
ただ目的もなく歩きつづけた。

　気が付けば、さゆるはあのワンルームマンションを遠く離れ、
海岸沿いにある大観覧車に独り乗っていた。
五月の空に向かって高く高く昇っていくゴンドラの中、ふと、ありえない想像が頭をよぎる。
最愛の人……片篠藍人と自分がごく普通の恋人同士だったら、どんな風に振る舞っていただろう。
意外と、月並みな生活を送っていたかもしれない。
平日は自分のタスクをこなし、疲れ切った休日には遅めのブランチで目を覚ます。
良く晴れた日にはふたり手を繋いで散歩でもして、
もしかしたら、五月の陽射しの中ふたりで観覧車に乗ったかもしれない。
考え出すとまるでそれが本当にあったことのように思えて、
今にも目の前に、ゴンドラの向かい側からさゆるを見つめる彼の姿が見えるような気がしてしまう。
決してありえない空想と分かっていても幸せな白昼夢を終わらせる気にはどうしてもなれなかった。
　観覧車から降り揺れない地面に足をつけると、白昼夢はあっという間に霧散する。
それでもたしかに心を蝕んでいた悪夢は遠ざかり、
まるで、愛する人の幸せな夢が悪夢を運び去っていってくれたようだ、なんて。
「……全然、あたしたちには似合わないじゃないの」