●ブルートレインは北を目指す

　こうしてチケットを持たない生徒たちを乗せて走り出してしまった北斗星だったが、彼らにとって幸いだったのは、その日がオフシーズンの平日で、充分なだけの空席が残っていたことだった。
　かなえとひびきは、教頭先生の配慮で、欠席した３年生の代わりに１号車の２段ベッドの上下を確保してもらうことができた。上の段がかなえ、下の段がひびきである。
　また、あずさの勘違いで乗車する羽目になってしまった修の場合は、あずさが「お詫びに」といって旅費を出してくれることになった。まあ正確に言えば、教頭が「あなたの所為なのだから云々かんぬん」とちくちくいい掛けたのをあずさが制して「わかったわよっ。彼の分は私が全額持つわよ、それでいいでしょ！？」と先手を打った次第なのであるが――。
　修は財布の万札を数え、自費でもなんとかなりそうだと冷静に考えていた。しかし、理事長の申し出を断るのは次の厄介事の種になりそうな気がして、素直にその厚意を受けることにした。
　そんなこんなで何度も乗務員さんやら電話先の親御さんやらに頭を下げた教頭の苦労は、詳しくは語らないが察していただきたい。だが教頭は半ばあきらめてもいた。なにせ理事長と一緒の旅で頭を下げなかったことなど、一度もないのだから。できる男・黒崎 俊介、実のところ一番の得意技はとんでも理事長やびっくり生徒のフォローなのであった。
　ちなみに空音は天野に首根っこを掴まれ、大人しく個室へ連行された。このふたりは、幸いなことに旅費に充分なだけの所持金があったので、それぞれ独自に席を確保することができたことも付け加えておく。

　――ともかくそんな訳で、上野の次の停車駅である大宮で降りて戻る者は一人もいなかった。
　その代わりといっては何だが、大宮駅で停車しているとき、修は一羽のカナリアが乗車してくるのを見た。見たどころか、ばっちり目もあった。それがラッセルだということに、修はもちろん気づいた。
　内緒な、と言わんばかりにカナリアは嘴をぱくぱくさせていた。それを見て、修は口をつぐんだ。
　どうやら、ラッセルはカナリアのまま旅についてゆくことにしたらしい。動物は手回り品としてケージにいれられてしまうためか、それとも乗車賃が惜しかったのか、カナリアはそっと姿を隠した。きっと車内のどこかに隠れているつもりだと思われるが、カナリアなので許してほしい。

「やっぱこういうのも修学旅行の醍醐味の一つだよなー」
　さっそく私服に着替えた橘 敦志は、めったに乗らない夜行列車をすみずみまで見学しようと車内を散策していた。
　
　とりあえず６号車ロビーカーを目指してみる。ロビーカーは共有スペースになっていて、ソファーや自動販売機が置かれ、人びとが思い思いに寛いでいた。
　そのとき女性の声で車内放送が掛かった。
　――食堂車グランシャリオよりディナータイムのご案内を申し上げます――
「電車の中でディナーか。たしか、食堂車はこの先の７号車だったよな。１１号車まで見学したいけれど、食堂車って通り抜けできるのかな？」
　敦志は、グランシャリオの扉をそっと開けてみる。
　制服に身を包んだ女性乗務員がすぐさま敦志に笑顔を向けた。
「ご予約ですか？」
「ええと、通り抜けたいんですけど、できますか？」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
　通り抜け、できるんだ……。
　通路を真ん中に挟んで、左右に白いクロスの掛かったテーブルが並んでいる。他の車両と違って、両側の窓は大きく、車窓を見ながらの食事を楽しめるつくりだ。それぞれのテーブルには赤いシェードランプが置かれ、薄闇にオレンジ色の灯りが揺らめいて、得も言われぬ上質な雰囲気を作り出している。
　がたん、がたん、規則的な列車の音。
　窓の外を煌めく夜景が流れるように過ぎてゆく。
　ふわふわとした金の髪の少女がひとり、フランス料理のコースを食べている。

　不思議な静謐さがそこには満ちていた。夜行列車の夜。メインディッシュを上品に切り分け口に運ぶ少女。それはどこか異世界の出来事のようで――魔法をかけられたかのような心もちで、敦志は７号車を通り抜ける。
　その先の通路では誰ともすれ違わなかった。Ａ寝台やロイヤルなどの高級客室が多いためかもしれなかった。
　一番先頭の１１号車が自分たちの車両と同じＢ寝台だと確認した敦志は――北斗星は１２両編成だが、１２号車は電源車なのだ――、元来た道を、自分たちが寝泊まりする２号車まで戻ることにした。
　ふたたび７号車グランシャリオを通り抜けようとしたとき、先ほどの少女は食後の紅茶を口に運んでいた。
　敦志は、その子に見覚えがあるような気がして、少しだけ立ち止まった。少女――大天使 天吏もまた、敦志を見て小首を傾げた。
「……？　こんばんは」
　敦志はすこしドギマギしながらも挨拶を返した。
「こんばんは。ええとあの……ディナー、美味しかったですか」
「……ええ。とても」
「いいですね。俺ら修学旅行だから、弁当で……」
「修学旅行……大変ね。……もしかして寝子高生？」
「えっ。もしかしてあんたも？」
「……偶然、ね？」
　さらに二言三言交わして、彼女が２年生であること、志望校のオープンキャンパスがあるために北海道へ向かっていること、ひとりで最高峰シート「ロイヤル」に泊まっていることを聞きだした敦志は、
「良かったら俺たちのところに遊びに来ないか？」
　と彼女を誘った。
「……ん。じゃあ、そうする」
　天吏はワンテンポ遅れて返事をすると、飲みかけの紅茶を置いて席を立った。

　敦志たちが２号車に戻ってくると、旅行初日、さらに車両貸し切りということもあってか、そこには他の車両とはまったく違う熱が篭っていた。どうやら、大トランプ大会が開催されているらしい。
「勝負はババ抜き！　負けたヤツは熊か熊先生とキスだからなーっ！」
　誰が言ったかそんな罰ゲーム宣言に、男子たちの野太い歓声が上がる。
「橘！　お前ももちろん入れよ！」
　声を掛けられ、やぶさかではない敦志だったが、連れである天吏が気にかかる。
　天吏は空いているベッドにふわりと腰かけると軽く頬杖をつき、
「見てるわ……しばらくしたら、勝手に部屋に戻るから……気にしないで、どうぞ」と言った。
　それじゃあ、と言うが早いか、敦志の手元には数枚のカードが配られた。

◇

「ハートのジャックと、ダイヤのジャック。上がりだ」
　生徒会長の海原 茂がカードを場に捨て、両手をひらりとさせる。
　勝負はとうとう、セルゲイ・ボスコフと敦志の一騎打ちとなった。
　残りのカードは全部で３枚。
　敦志の手元にはハートのＡとジョーカー。セルゲイの手元にはスペードのＡ。セルゲイの手番だ。
（ここでセルゲイがハートのＡを引けば、俺の負けってことか）
　敦志の額に一筋の汗が流れる。負ければ熊か、熊先生かの２択なのだ。
「僕はもし負けたら熊とキスを選ぶヨ。ダイジョーブ。人に飼いならされた熊なら、故郷の熊より可愛いだろうからね」
　そう言うと、セルゲイは敦志の２枚のカードのうちどちらを選ぶか、指先を彷徨わせる。
　そのときだった。
　一瞬、敦志の身体をわけのわからない衝撃のようなものが通り抜けた。
　実のところそれは、ろっこんでもなんでもない、ただの威圧だった。
　セルゲイが、ごくごく短い瞬間、それこそコンマ何秒かだけ、本気で敦志を威圧したのだ。
　敦志には、目の前のセルゲイがずっと微笑んでいたことは、疑いのないことのように思われた。だが、本能とでも言おうか。身体は蛇に睨まれた蛙の如く萎縮し、泳いだ視線は知らず手元のジョーカーを確かめてしまっていたのだ。
　セルゲイはそれを見逃さなかった。
「エーイ、コッチ！　やったね。ハートのＡとスペードのＡで僕の勝ちだ」
　敦志はがっくりと肩を落とす。
　だが、仕方がない。本来、子どものトランプ遊びごときで負けるようなセルゲイではないのだから。

　――こうして、北斗星は宇都宮を過ぎ、郡山を過ぎ、順調に北上を続けてゆく。そして日付が変わる前に仙台に停車したあとはもう、ただひたすらに北の大地を目指すのだった。