pain　夢の中で｜リアクション

pain　夢の中で

　サアッと突然日が翳った。春の天気は変わりやすい。庭で寝そべりうとうととしていた八神修は、西から流れてきた雲の群れを見ながらまずいな、と思った。
　それでも疲れていたのだろう、眠気には勝てなかった。肌寒くなってきた空気に少しぶるりとしながら修は眠りに落ちていく。
　寒さと疲れから来る浅い眠りは、起きてるような寝ているようなぼんやりとした状態のまま修を夢へと連れて行く。修の記憶の底にあるものがふつりふつりと立ち上り、修をゆっくりと包み込んでいく。

【八神修の夢】

　あの時も、寒いなと思ったのだ。
　風邪を引いたのかと思い、幼い俺は独り悪戦苦闘しながら押し入れから布団を引っ張り出した。
　小さなアパートのろくな家具もないガランとした部屋で。俺は布団にくるまりケホケホと小さな咳を落とした。

　母親はまだ帰らない。それまでに少しでも良くならないと。心配をかけてはいけない。

　けれども、その時の風邪はおかしかった。
　ぐらぐらと揺れる視界。壁が迫り、天井や床が回っている。ストンとどこまでも落ちていくような感覚に、幼い俺は布団にしがみついた。
　これは何なのだろう。おかしい。怖い。
　夕暮れと共に濃くなる部屋の陰。その闇が徐々に広がり俺を包んでいく。俺はそれに本能的に怯えた。

　幼いながらにマズイと思った。しかし、その時にはもう手遅れだった。
　やがて咳は本格的になり、寒さと関節の痛みが俺を襲った。体の芯は冷えているのに、頬は燃えるように熱い。
　小さな体は耐える力を持たなかった。誰もいない部屋で、症状は重篤になった。

　辛い
　寒い
　怖い
　おかあさん　おかあさん
　痛い
　暗い
　怖い

　夢か現か分からない途切れ途切れの意識。俺は独りぼっちの部屋で優しい母の面影を求めた。
　怖いんだおかあさん。自分を包む暗闇はどんどん大きくなっていく。沈んでいく太陽。部屋はしんしんと冷えていく。覆い被さる闇に俺は本能的な恐怖を覚えた。引きずり込まれる。音すらない世界に。

　それは、きっと―――死。

　母が帰宅した時、俺の意識はもう朦朧としていた。
　ぐったりした俺の横で懸命に看病する母。
　額に載せられる冷たいタオル。頬に触れる優しい手。母がいてくれる事が嬉しかった。甘えたかった。けれども思考も体も鉛のようで、もう声も出なかった。だから、心の中で呼んだ。

　おかあさん、ありがとう

　そこで、俺の意識は途切れた。
　次に俺の姿がぼんやりと浮かんだのは、無機質な建物内の廊下。
　誰かが話している。それを俺は優しく細い腕の中で聞いていた。そしてその腕が離れていく感覚。今度は自分が無遠慮に抱きかかえられる感触。微かに香る消毒薬のような匂い。それは断じて甘い母の香りではなかった。
　いやだ。この腕はいやだ。
　俺は必死に抵抗し、さっきまで自分を包んでくれていた腕に縋った。それは、母の暖かさ。自分の小さな手がふわりと包み込まれる。俺は熱に浮かされながらも微笑んだ。
　ほら、おかあさんだ。ごめんね、熱なんか出して。すぐに良くなるから。だから……傍にいて。

　もう俺は目覚めたくなかった。この後の悲劇を知っていたからだ。
　これが、母との今生の別れとなったのだ。
　手の優しい感触。母の最後の温もり。貴方は優しく暖かかった。忘れたくないよ、母さん―――。

　頬に感触がして修は目が覚めた。
　気が付けば、雲の切れ間から薄日が差している。そして自分の横にはたくさんの家族……犬や猫達が少し心配そうな瞳で修を見つめていた。

「起こしてくれたのか。有難うな」

　修は優しく柴犬のカーキーを抱き寄せた。カーキーはペロリと修を舐めながら嬉しそうに顔を擦りつけてくる。その暖かさが夢の暖かさと重なった。命が、じんわりと滲んでくる。
　修はカーキーや猫達に微笑みながら、もう消えてしまった夢の中の暖かさをぼんやりと思い出していた。

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