誰でもない誰かへの変身｜リアクション

誰でもない誰かへの変身

　エリオット・Ｅ・シートンは、水族館にてトレーナー兼飼育係として働いている。
　世間が休日であっても、トレーナー兼飼育係の朝は早い。
　プール掃除を終え、アシカとトド達に餌をやったところで、
　――オウッ、オウッ。
　――オーウ、オーウ。
　と、彼らが一斉に騒ぎ出した。
　何事かと、エリオットは彼らの視線を追い掛けて――、
「っ……！？」
　見知らぬ、変わった風体の男が少しだけ離れたところに立っていることに気付く。
　まだ客が水族館を訪れる時間ではないし、そもそもここはバックヤードだ。
　アシカやトド達のことを第一に思っているエリオットである。
　故にエリオットは、すぐさま、彼らを背に庇うようにして男の前に立った。
「君は、何者ですか？　ここは、関係者以外立ち入り禁止ですが」
　今絞り出せる中で一番毅然とした声で、問う。
　謎の男が、「これは失礼した」と微かに笑った。
「時に……貴殿は、自分以外の誰かになってみたいと思ったことはないかね？」
　そうして、男は語る。
　己の素姓と目的、そして自身が生み出し得る不可思議な業のことを。
「自分以外の誰か……それは、もしかして人間以外の生き物でも？」
「無論だ。何かなりたいものがあるならば、その願い、我に叶えさせてほしい」
　男の言葉を耳に、エリオットは暫し夢想する。
（僕が他の生き物になっていて……）
　それは、想像するだけで胸の辺りが蕩けるようなことだった。
「えっとぉ、やっぱり、アシカかな」
「ふむ、アシカか。貴殿は彼らが本当に好きなのだな」
「それは勿論！　ああでも、アザラシたちも気になりますね……」
　エリオットは、アザラシ達のことも愛おしく思っている。
　のんびりと一日過ごして、餌を食べるだけのころんとした可愛らしい生き物。
「朝起きてから、魚を食べて、泳いで、寝て過ごして……」
　そんなのほほんとしたアザラシの一日に、エリオットは想いを馳せる。
「アシカたちよりも海に適応した形になっているんです。陸では動くのが遅いんですが……」
　これもまた可愛げがあってとそこまで言って、エリオットはハッと口元を押さえた。
　このままでは、愛しい生き物達のことをいつまででも語ってしまう。
　こほん、と一つ咳払いをして、エリオットは話題を収まるべきところに戻した。
「ええっと、なので、アザラシでお願いします」
「今度こそ、いいのだな？」
「はい。もちろん、天敵も色々といますが、ここは水族館ですからそれほど気にしなくても済みますし」
　穏やかな笑みを浮かべて、エリオットは男に言葉を手渡し切る。
　途端、男の背がぐん！　と大きくなった。
（あ……いや、これは……）
　近くのガラスに、映るものがある。
　円らな瞳をした、ころころと愛らしいフォルムの生き物――アザラシだ。
　エリオットが手を動かせば、ガラスに映るアザラシも同じ動きをする。
　つまり、そういうことらしかった。
（本当に、アザラシになったんだ……）
　ふと見ると、もう近くにあの男の姿はなかった。
　ころり、と、とりあえずその場で横になってみる。
　サメやシャチのような天敵の手も、ここまでは届かない。
（のほほん、ってこういうことなんだろうな）
　すぐに、うとうとと心地の良い眠気の波が押し寄せてきた。
　エリオットはそれに逆らうという選択をせず、ただただ身を任せる。
（たまにはごろんと。そんな一日も悪くない、ですよね）
　とろとろとそんなことを思いながら、エリオットは夢の海へと深く深く潜っていった。

このページにイラストを設定する