春時雨の旧市街｜リアクション

春時雨の旧市街

　女子大生の仙藤紫は、知的で大人びた性格だ。
　将来の目標は、心理学の研究者かカウンセラーになること。
　上背のある細身の体には、艶のあるセミロングの黒髪がよく似合う。

　そんな彼女は今、肩で風を切って参道商店街の大通りを歩いていた。
　木天蓼大学の学生課で入学手続きの諸々を済ませ、気晴らしにぶらぶらと散歩中なのだ。

　入学式からの日々は、高校のそれとはまるで別世界だった。
　履修届けを出して、目の飛び出るような値段の教科書を買って、研究室やサークルを探して……
　それを全て、自分が責任を持って行うのだ。嫌が応にも、大人になったことを実感する。

　目の回るように忙しく、充実した日々。
　寝子高校で卒業証書を貰ったひと月が、紫には遠い昔に感じられた。
（講義が始まったばかりだし、まだしばらく忙しいだろうけど）
　自分の夢を叶えるために、一歩一歩頑張っていこう――
　そんな紫の思考を、稲妻の不穏な唸りが中断させた。

「……！」
　ふと空を見上げれば、先ほどまで晴れ渡っていた青空が、墨をはいたような黒雲に覆われている。
「なんてこと……これは一雨来るわね」
　紫が言い終えるや、ざっと雨が降り出した。

（雨宿り出来そうな場所はないかしら）
　時雨は暫く続きそうだった。春先とは言え寒さの残る時期だ、風邪をひいてしまうかもしれない。
　小走りで雨宿り先を探していると、紫の目に小さな喫茶店が飛び込んできた。
　渡りに船と飛び込んだ紫を、時が静止したような居住まいと、少し気だるげなＢＧＭが出迎える。
　静かな店内を包むゆったりとした空気。幸いにも客の数は多くなく、物思いにふけるには良さそうだ。

　案内された席からそっと窓の外を見ると、土砂降りの雨が窓を叩いていた。
（あと少し遅かったら……酷いことになっていたわね）
　濡れ鼠の自分を想像して、紫は身震いした。ハンカチで拭いた肌と髪が、まだ少しひんやりする。

「ブレンドコーヒーを」
　よく磨かれた木製のチェアに背を預け、紫はぼんやりと外を眺めた。
　向かいの空席に、ふと紫は、去年の夏に別れた元恋人のことを思い出す。

（思い出した。私は、前にもここに来た事がある）
　それはちょうど去年の今頃。二人の関係が終わりつつあることを、互いに悟りつつあった時期だ。
　だんだんと会話が弾まなくなって、何気なく寄ったのがこの店。
　その時に頼んだのも、同じメニューだった。ここで初めて、互いに「終わりの始まり」を悟って……
　ちょうど、その日も今日みたいな雨だった。

　紫は震える指先で、心のかさぶたを、そっとなぞった。
　あの頃の自分が、どんな日々を過ごしていたか。
　明るい未来など永遠に来ないと思えたあの頃が、ぼんやりと紫の脳裏に蘇ってきた。

　受験を控えて、神経質になっていた。
　将来が不安で仕方なく、彼のことに十分気が回らなかった。
　今振り返れば、自分の言葉が、行動が、随分と彼を傷つけていた事に気づく。

　彼からのサインはいくつもあった。取れた選択はいくつもあった。
　結果論とは分かっていても、心の奥から後悔がにじみ出てくる。
　もしもあの時、私が。もしも、もしも――

「お待たせいたしました」
　店員の声に、ふと紫は我に返った。
　運ばれてきたコーヒーを一口飲めば、挽いた豆の濃い香りも、あの時のままだ。
「……まだ引きずるなんてね」
　紫はゆっくりと嚥下した。
　残った未練を、コーヒーと一緒に。

　これからの自分には、新しい日々が待っている。
　後悔はここに置いていこう――
　時間をかけてコーヒーを飲み干すと、紫はそっと席を立った。

　窓から差し込む陽の光が、白いカップをそっと照らしていた。

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