春時雨の旧市街｜リアクション

春時雨の旧市街

　旧市街地の片隅にひっそりと佇む『浅葱眼鏡店』。
　浅葱あやめは、そこの店主だ。

　灰色髪のボサボサ頭に、身にまとった陰気な空気。
　ささやくような小声に、人見知りの激しい性格。
　眼鏡の奥から睨みつける鋭い眼差しは、強度の近視ゆえだ。

（僕の代で店を潰してしまうかもしれません……）
　職人としては超一流だが、そのぶん接客は不得手。
　祖父から受け継いだ店の売り上げは、正直言って芳しくない。
　そんな若き店主にとって、店の行く先は常に憂いの種だ。

　だが、そんな彼が日頃の悩みから解放される時がある。
　そのひとつが、休日の家事で体を動かしている時だ。
　たとえば、今日のように。

「ふわああ」
　寝ぼけ眼をこすりながら、あやめは居間のテーブルに着いた。
　いま自宅にいるのは、彼ひとりだ。
　同居している家族は仕事やら用事やらで既に出払っている。

「やーれやれ。みんな無精ですねえ……」
　あやめはテーブルの朝ご飯を食べ終えると、洗い桶に浮かぶ皿と椀を洗い始めた。
　どうせ家族のことだ、掃除も洗濯もほったらかしだろう。
（他の家事も、片付けてしまいますか）
　シンプルかつ無駄のない動きで食器を片付けながら、あやめは頭の中で簡単なスケジュールを組んでゆく。

　あやめは家事は特別得意ではないが、回数をこなせば技術は身につく。
　脱水機から出した衣服を外に干し、窓を開けて掃除機をかけて……
　流れるような機敏な動きで、溜まった家事はみるみるうちに片付いていった。

「せっかくだから……洗面台も片づけましょうか……」
　スクエア型の眼鏡の奥で、あやめの目がキラリと光る。
　ここ数日、シンクの水垢が気になっていたのだ。

「水垢は放置できません。ピカピカに磨き上げるとしましょう」
　シンクに薄く広がる鱗状の水垢を、タワシで丁寧に落としてゆく。
　垢を丁寧に洗い落とせば、次は鏡だ。
　職業柄、汚れたガラスを見ると本能的に磨きたくなってしまう。

（手を動かす作業はいい。何日でも没頭していられる）
　そんな事を考えながら作業に没頭していると、ふいに風呂の窓から湿った風が流れてきた。
「……まさか」
　嫌な予感を覚えて外を覗くと、バラバラと雨が降り始めているではないか。
「しまった、洗濯物が！　布団も干してるんだった！」

　道具を放り出し、あやめは二階へと駆け上がった。布団だけでも、急いで取り込まなければ。
　大慌てで引き込んだ布団をそっと撫でて、あやめは失意の溜息を洩らした。
　どれも完全に雨で湿っていた。

「うう……熱中しすぎた。もう少し早く気づければ……」
　ぽつりぽつりと愚痴りながら、あやめは洗濯物を運び始めた。
　幸い湿気はそれほど酷くはなかった。乾燥機にかければ、家族の帰りには間に合うだろう。

　ベランダから差し込む日差しを、あやめは恨めし気に見つめた。
（あと１０分、遅く降ってくれればよかったのに）
　幽霊も退散しそうな顔つきで洗濯物を片付けて、あやめが洗面台に戻ろうとした時、
　ブーッ。
　古めかしいチャイムを思わせる音が、居間の方から響いてきた。

「おや、お客様ですか」
　それを聞いたあやめは、音の発生源――テーブルに置いた彼のスマホを手に取った。
　店のインターホンと繋がったアプリが、店の来客を告げているのだ。

「……はい、浅葱眼鏡店です」
　インターホンの向こうから、馴染みの客の声が聞こえた。
　何でも、眼鏡が壊れて難儀しているらしい。

「承知しました……今、開けます……」
　眼鏡は、目に等しい体の一部。お客様はさぞ困っているだろう。
　家事を中断し、あやめは支度を整えはじめた。ここからは、仕事の時間だ。

「いらっしゃいませ。浅葱眼鏡店へようこそ」

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