前程万里の姿也｜リアクション

前程万里の姿也

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　瞳に飛び込んできた映像があまりに信じ難くて、だからこそあっけに取られたのもあり葉利沢倫理子は暫く凝視していた視線を、とうとう真正面の水面から足元に落とした。

　――　……見たくなかった……いまさら……失われたものを見せつけるなんて……。
　どこまで残酷な思いを味わわせれば気が済むのだろう。
　足元を、暗闇を睨み付けるようにしながら、そのまま瞼が閉じられる。
　あの夜、本当は殺されるべきだった、殺してくれたらよかった。なのに……生き延びた。生かされてしまった。
　１４歳の誕生日からわずか数日後に倫理子を襲った悪夢は、昼夜問わず度々フラッシュバックされ倫理子の心を蝕んだ。
　寝子島にまで逃げる程追い込まれたのは、悪夢そのもののせいだけでなく彼女を取り巻く近しいはずの環境たち、それらから向けられた理不尽なまでの悪意。
　無垢だったからこそ、純粋に人を信じていたからこそ、身も心も徹底的に汚された倫理子にとって家族や友人たちの振る舞いは耐えきれるものでは到底無かった。

　信じて『いた』から、倫理子の瞼は意思に反して開いていく。過去形のはずなのに。
　これ以上見たくないと思っているのに、自分の名前を呼ぶ声がするのだ。
　再び開かれた闇に溶け込んだ瞳の中に、もう忘れ去ったと思っていた人物の姿が映り込んだ。
　“親友”だった子。
　事件後、表面では倫理子を慰めたが陰で誹謗中傷していた。どんなに『何でもない』と答えても、自らの自己満足に浸って善の皮を被った悪意を、倫理子の心へ容赦なく刻んでいった子。
　『その子』のはずなのに。
　水面の中の自分は笑っているのだ。それは取り繕ったものではなく、心からその子へと笑いかけているのが暗闇に立ちすくむ倫理子には分かった。
　これはあの忌まわしい夜以前か、もしくはその夜すら無かったことになっているアナザーストーリーなのだと確信出来たから。
　そこに映るは、今の自分が失ってしまったもの。どんなに手を伸ばしても届かないものが存在していた。

　人形の如く魂を宿さない瞳で、他人を見るように倫理子はもはや呆然と水面の中の自分を見つめる。
　見たくないのに、体が、心が、目を逸らすことを許してくれないのだ。
　何の憂いもなく目覚め、両親におはようの挨拶をし、時に料理を手伝い。
　友達や恋人と他愛のない会話を笑いながら、時にささやかな喧嘩へと発展させながらも、素直な気持ちを隠す事無く言葉にすればいつの間にか仲直りをして。
　人が見れば、平凡でどうということもない俗にいう恵まれた日々。
　そして現実の倫理子の中では、「フツウ」ではない「普通」の日々。
　喜怒哀楽を豊かに浮かばせるその顔はいっそ別人のようにその瞳には映った。
　それは拒絶。次に感じたのは共感。
　倫理子は瞳を大きく見開く。水面に揺れる幻を見るためではなく、自らの心の水底を確認するかのように。
　――　こんな私、私じゃない……もう戻れない……。
　――　『ソウネ』。
　相部屋から一人となった寮で、問いかけに応えたあの声がまた耳の奥で聞こえた気がした。
　瞬間、伏せ気味になっていた顔がバッと上げられる。
　その両目には水面が映ることは無く、飛び込んできたのは寮からほど近い見慣れた景色だった　――

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