【お花見】しづ心なく花の散るらむ｜リアクション

【お花見】しづ心なく花の散るらむ

　桜の降る音すら聞こえそうな、音のない春の午後だった。
　ある公園の片隅、植樹計画の過ちのようにただひとつ、ぽつんと存在する桜がある。
　その樹の下にいるのは青山絢だ。
　一人芝居を演じている。
　公園に人の姿はまばらだが、それでも、絢は臆さず役に没頭する。自分を忘れ、偽って、他の誰かになりきるかのように。
　彼女にとっては、人目のある場所で演じるのも練習なのだった。

　絢が寝子島へ来て一年になろうとしている。

　あんなことがあったのに、絢は未だにカメラを捨てられない。
　幼き日に手にしたデジタルカメラ、意味も知らず切り続けたシャッター、その冴え冴えとした音で、どれだけ虚しく、絢は現実に立ち向かおうとしてきたことだろう。
　今、こうして演技を続け、脚光もない、喝采もない舞台に立っているのもまた、同種の虚しきものなのかもしれない。
　写真を撮ることと、役を演じることには共通点がある。
　いずれも、流れゆく時を閉じ込め、時の流れから切り取って、その瞬間を永遠に静止させることだ。
　写真であればその印画紙の中に、演技であればその役の生きた瞬間を自分という器の中に。
　写真に代わる手段として選んだ演劇も、皮肉なことに「時を永遠に静止させる」という意味では同じことだった。

「それ以上言わせないで、もうこれ以上は――」
　持参した台本を手にして、台詞やト書きに描かれた情景を脳裏に思い浮かべる。
　開いたページはちょうど、月夜、満開の桜の下で、少年と少女の恋の終わりの刹那を描いたシーンだった。
　最初は台本に描かれた文字を追っているだけだったものが、次第に文字に感情が宿り、見えないはずの情景が空気を纏ってリアルに浮かび、絢の目の前には清かな月明りの下で満開の夜桜が、恋の終わりの物語るような儚い美しさを湛えて咲くに至っていた。
「その先を求めれば、もう取り返しがつかなくなるのだと、どうしてわからないの？」
　毅然とした口調とともにつかつかと歩むも、四歩目で絢の足は、言葉と表情も、息苦しくなったかのように勢いを喪っていく。
「だから唇を塞いで、私の」
　絢は訴えかけるような目で、相手がいるべき方向を見つめる。
「どうか、取り返しがつかなくなる前に」
　このとき絢の瞳には映っている。
　その情景が。その恋人が。
　桜咲く満月の夜。戸惑ったような恋人。自身と、自身が引き起こしていることに、若干の恐怖と恍惚を同時に感じている主人公……。
　台本（ホン）を書いたのは自身ではないというのに、この瞬間には用意されたセリフが、自分の言葉、自分の感情であるかのように自然に紡がれていた。
　覚悟を決めたように近づいてたきた彼を、絢は一度拒否し、二度目もまた拒否し、三度目には受け入れた。
　台本には演じる主人公の心情など描かれていない。けれど絢には『彼女』の気持ちが痛い程わかった。いやむしろ自己と『彼女』とは限りなく同一化しているため、『彼女』の考えは自分の考えと同じだ。
　舞台は、恋人と最後の抱擁で終わる。

　涙は零さなかった。零したら嘘になってしまうから。
　涙ですら癒せぬ悲しみがあるから。