春色タペストリー｜リアクション

春色タペストリー

　カパッと保温ボトルの蓋を閉めた。
　きゅうっとパッキンが締まる感じも伝わってくる。このボトルの密閉度は高いから、そうそう温度は下がるまい。
　けれどもほんのり、香りは漂うのである。
　鼻孔と胃をくすぐる刺激的な……カレーの香りが。
　このカレーに鬼河内萌は自信があった。休日のたびに学校で、ひとり研究開発を繰り返し編み出した絶妙のブレンドだからだ。舌からズガンと脳を打つが爽快感のある辛さ。ふくよかで懐の深い味わい。煮崩れする寸前まで火の通った野菜に肉、そのすべてが完璧だった。
　カレーの味は恋の味。想う人のために作ったのだから、愛情のスパイスだってたっぷりなのだ。
「やーん」
　恋する乙女の萌は、ぽっぽと赤らむ顔を手で押さえた。
　今日は、嬉し恥ずかしリベンジである。リベンジという過激な言葉に『嬉し恥ずかし』という形容詞はどうなのかという向きもあろうが、事実なのだから仕方がない。
　今日、萌は往くのだ。野菜原ユウと一緒に九夜山へ。少し前にお花見に行くつもりで向かったものの、まだ時期尚早でまったく桜の気配はなく、そればかりか不幸にも、頭部に投石をくらい踏みつぶされたカエルのような叫びを発するはめとなったあの九夜山へ！　繰り返すが、ユウと一緒に、ふたりっきりで！　これをリベンジと言わずして何と言おう！
　桜の下で食べるカレー、心を惑わす美味に光景、開放的な屋外ということもある。心が揺れぬ道理はあるまい。これはひょっとすると……ひょっとするかもしれない。
「やーん♪」
　いざ出陣、と萌は待ち合わせ場所へと向かった。

◆◆◆

　ゴチャゴチャうるせえよ大人ども。俺たちは押さえつけられねえぞ――か。
　随分荒っぽいこと言ってるんだな、と思う。
　公園のベンチ。鴻上彰尋は空を見上げて、眼鏡に映り込む蒼い光に目を細めていた。
　耳にはヘッドフォン一体型のミュージックプレイヤーがあった。流れているのは先日、高校で遭遇した事件のおりに持っていたCDの曲だ。パソコンでリッピングしたMP3音源だが、原音がもつ突き刺さるような感覚はいささかも損なわれていない。
　歌詞はさらに、ジジイになる前に死にてぇぜ、というようなものに続く。
　自分からすればそれこそ、祖父の代の音楽だ。これを歌っていたバンドも、今では立派な『ジジイ』なのではなかろうか。まあ、宣言通りすでに死んでいるのかもしれないけれど。
　このようにメッセージは何世代も古くて化石みたいだし、ドカドカ騒がしい攻撃的なドラムも落ち着かないし、太いベースは不穏なグルーブを刻んで跳ねるし、ギターも巧拙より凶暴さが目立つような音楽であって、彰尋的には遠い世界には違いないのだが、不思議なことに「わかる」という感覚があるのも事実だった。
　わかる。
　青臭いかもしれないけれど、今自分が抱えている、どうにも解消しきれないもどかしさを、彼らが全力で表現しているように思えるから。
　手が届かなかった――先日の事件について、彰尋はそう感じている。
　いや正しくは、手が触れた感覚はあるのだけれど、つかみきれなかったというのが正解か。
　仮想『現実』で出会った七夜あおいの手も。香川という男が持つであろう真相も。
　こうやって自分は失敗ばかり重ねて、いつの間にか年経て『ジジイ』になっているのだろうか。
　今流れている曲も、歌詞を一度しただけなら反抗の歌のようだが実際は、どうにもできないまま歳を取ることへの恐怖をテーマにしているのかもしれない、そんな気がした。
　曲が終わった。
　彰尋の顔に影が差す。
「彰尋くん」
　何聴いてるの？　と、彼をのぞき込むようにして七夜あおいが言った。

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