夕方、何する？｜リアクション

夕方、何する？

　深倉理紗子自動販売機から缶コーヒーを取ろうとし、自分の影が長いことに気付いて窓の外を見た。
　空は茜色、すっかり夕方だ。

「思ったよりも明るいな。もう、春が近いのね」

　もう夕方、と思うのは、殺人的な忙しさの所為もあって時間の感覚が薄れているから。
　今日は、当直の日。今日の日勤と明日の日勤が当直で結ばれる、月に何度かある36時間勤務の日だ。
　午前中から午後3時までは外来診察、1病棟カンファレンスで確認事項や申し渡しが終わった後は当直の準備として、医局にある自分の机で受け持ち患者のカルテを確認……時計を見る時間なんてなかった。
　インフルエンザが流行しやすい季節柄、患者はいつも以上に注意深く見なければならず、負担は大きい。自分を含めた周囲が保菌者である場合もあるから注意しなければならないのに理紗子の激務は時計を見る余裕すらない。

（医者の不養生とはよく言うけど……）

　去年、理紗子は過労で倒れた。
　手遅れにならなかったのは幸運だろうが、事態を重く見た中学時代からの親友は放っておけないと理沙子を住まわせ、1ヶ月間療養に専念させたのだ。
　いつ寝てもいつ起きても自由、理不尽なクレームもこうした負荷の掛かる勤務もない突然の秋休みは随分戸惑ったし、客観的に見て異常な考えが頭に過ぎって秋休み開始当初は慣れなかったのを思い出す。
　激務を重ねてまた倒れるような事があったら、理紗子のお人よしの親友は例え地球の裏側で公演してようが戻ってきて心配するだろう。
　放っておけないと世話を焼いてくれる親友には感謝しかなく、彼女の顔を共に奏でたフルートの調べと共に思い出した理紗子は、出勤前に医局管理の冷蔵庫に入れ、やっと休憩になって存在を思い出してもらえたコンビニのサンドイッチをぱくりと食べる。
　だいぶ時間が経過しているからか、コンビニにそのまま置いていたら値引きシールが貼られてそうなサンドイッチは、世間一般が抱く医者の食事の中に姿を見せないに違いない。

（世間じゃ医者は高収入で優雅にワインをたしなみながら……なんて思ってる人もいるけど）

　現実はこんなもん、と思う。
　勤務医のかなりの割合が過労死寸前という現実、優雅にワインをたしなんでいるような時間はない。
　今食べているタマゴサンドとチキンサンド、それに買ったばかりの缶コーヒーが当直前の最後の食事だし、次に一息つける時間はいつだろうという有様。
　慣れてしまった、なんて言ったら、心配されてしまうだろうけど。

（でも……春が近いからかな、空が思ったより明るいし、夕日も奇麗。海岸のほうに行ったらもっと奇麗だろうし、沈んでいくのも見られるけど、休憩時間が終わってしまうものね）

　理紗子はふと、昔は、どう感じてただろうと思った。
　季節の移り変わりも外来患者の数の変動基準になっているけど、昔はそうではなかった様な気がする。
　春が近い、とか、空が思ったより明るい、といった小さな発見は昔も心が弾んだし話題にもしたと思うが、発見はしてもここまでではなかった様な。
　年を取ったという年齢ではないけど、中学や高校の時とは違うのだろう。あの頃から随分経って、変わった事もある。変わらないものも、ちゃんとあるけど。
　春を切っ掛けに色々思いを馳せて穏やかになった心は自然と口元に笑みを作らせる。
　独りじゃない時間に変わらないものを嬉しく思うとして、今は。

（当直、頑張ろう）

　束の間の休憩時間、窓の外を見る理紗子の目は優しかった。