夕方、何する？｜リアクション

夕方、何する？

　篠宮六花の前には水平線が広がっていた。

「認めないぞ」

　1秒前の自分の呟きを即座に否定。
　尚、1秒前の呟きは『ここ、どこだ？』───星ヶ丘寮の姿かたちなんてなかった。迷ったと認めず、海に行こうとしていた事に今決めた。
　海に近づく度、波の音がよりクリアに耳へ届く。
　ゆっくり坂道を下る度、サイドの髪に飾られた鈴の音が波の音と競演の音を奏でる。
　1度足を運びたいと思っていたが、今までそうしなかったのがもったいないくらい奇麗な競演だ。

「燃える様な赤、だな」

　空も海も今は青くない。
　空も海も全てが赤く、素直に凄いと思えた。
　赤の全てがこの世界にはあって、ひどく奇麗で。

（俺も、同じ色になれるだろうか）

　荷物を置き、波際へ歩き出す。
　この空と海に入っていけば、この目と羽織のように自分の全てが赤くなれるような、そんな気がして。
　足元の砂を浚う波の中へ足を踏み入れる。
　波と鈴の音と1つになったような。

　今だけ、この世界になったように。
　今だけ、この世界から消えるよう───

　六花を『この世界』から引き戻したのは、ピアノの音色だった。
　夕日に何かを重ねるような、感傷的で深く心に沁みていくような音色は、幻聴じゃない。

（ピアノ？）

　六花は何処で誰が奏でているのだろうと視線を巡らそうとし、自分が今立っている場所に気付いた。
　膝上まで海に浸かっていて、着物も下駄も波打ち際を歩いていた時とは比べ物にならない程濡れてしまっている。

（彼か）

　六花は、市橋誉の姿を見つけた。
　学年こそ違うが、同じ寝子高の芸術科で同じ星ヶ丘寮、しかも彼もピアノを奏でるから全く知らないというわけではない。
　自分と同じでピアノが好きで、自分とは異なる音を持つ後輩だ。

（そうか。ろっこんか）

　ピアノはないがピアノの音がするとあれば、そう考えるのが普通だろう。
　誉の音は今日という日を振り返る様な、そんな音色をしている。
　六花は、先程浮かんだ言葉をそうじゃないと振り払うように緩く頭を振ると、波と競演していた鈴の音がチリンと異なる音色を奏でた。

（もう以前とは違う）

　孤独を操れなかったあの頃とは違う。
　自由な時間を心と身体で感じられる夜明けが来たのだから。
　と、誉の音色が変わった。
　先程までは海面に映る夕日がそっと震えるくらい切なかったのに、心が弾むような躍動感がある。
　この景色に感謝しているかの様な響きもある気がした。

（音の粒が弾んでいるな）

　六花は心の中で呟き、それから、やっと寒くなってきた事を自覚する。
　季節的に海に入る様な季節ではなく、風も春の色合いはまだない。

「だが、心地いい」

　足を踏み出そうとすると、足元が覚束なくて転びそうになる。
　でも、歩く。

（これは酔う）

　でも、歩く。
　面白いから。

（多分、今の俺そのものだから）

　全く安定しない足元は、不安定に揺れる自分の心と同じ。
　これからは自分が決めた道を生きると決めた事は、決して小さくはない。

「……これから、頑張らないとな」

　六花の口元は少し楽しそうに微笑んでいる。

「そろそろ戻ったほうがいいだろうが……」

　どうやって岸に戻ればいい。
　六花は、誉を見た。
　『この世界』から引き戻してくれた同じ寮の後輩なら判るだろうか。
　しかし、今彼は演奏中である。
　ついでに、同じ寮なら誉と帰ったほうが迷わない安心もあるのだが、迷った事を認めない六花は気付いてない。

「ピアノの音色を聴き終えてから考える」

　六花がそう結論を出したのは言うまでもなかった。