FEAR THE FORCE：変異-METAMORPHOSE｜リアクション

FEAR THE FORCE：変異-METAMORPHOSE

　学校にいたはずなのに――という疑念が浮かぶも、空気中の塵のごとくたちまち飛んでいった。
　すぐに七枷陣は気を取り直している。
　妙な夢を見ていた気がした。
　日曜の寝子島高校に、水やりか何かに行っていた夢――。
　そんなバカバカしい考えはすぐに消えていた。目指すテーブルを見つけると、陣はガラッと、背もたれのない簡易椅子を引いて腰を下ろす。
　目の前には彼女がいた。頬杖をついて、退屈そうな顔をしていた。
　はっとするほどの美少女、目はいささかツリ目で、どことなく狐のような印象があった。ポニーテールにした髪が、うなじの白さを際立たせている。朝に蜜柑でも食べてきたのだろうか、ほんわりと甘酸っぱい香りがしていた。
　fox_onthe_run33だ。ねこったーのアカウント名も同じ。
　けれども陣は彼女のことを、紅子（べにこ）と呼んでいた。
　『ハラキリ』のキャラ紅姫が好きでねこったーのアイコンにもしているので、そこから陣がからかい半分でつけたあだ名だ。彼女は最初嫌がったが、いつの間にかその呼称を受け入れている。
「てか、遅いんですけどー」
　じろっとした上目遣いで紅子は陣をにらんだ。平板な口調に苛立ちが混じっている。
「悪い、寝坊した」
「素直に謝ったら好感度上がる、とか思ってない？　そんなのゲームの世界の話だから。現実はそんな甘くないから」
　冷ややかな言葉使いだが、紅子がだいたいいつもこうなのを陣は理解している。
「まーそうチクチク言うなよ。ほら、始めようか」
　持参のカードケースから、陣は『ハラキリ・センチネル』のデッキを取り出した。すると、
「今日こそは叩きつぶしてあげるから」
　待ってましたとばかりにニヤッと笑って、紅子は自分のカードをテーブルに置く。
　かつて『世直し』と称してネットで買春目的の男性をおびき出し、集団リンチして憂さを晴らしていたグループに彼女は属していた。相手の財布は巻き上げるが、それは個人情報を握って復讐されにくくするためであり、金銭を奪ったりしないのを誇りにもしていたという。（実は内部の裏切り者のため、その建前は崩れていたのだが）
　その頃の彼女はもっと、殺伐とした雰囲気を帯びていたように陣は思う。木工用ナイフで荒っぽく削った資材のようにささくれだっていた。
「ほら、一枚引いて」
　ほれほれ、と歯を見せる今の紅子に、むきだしの有刺鉄線のようなかつての姿はない。多少小生意気ではあるものの、どこにでもいる小学校高学年から中学生くらいの少女に見える。デニムのジャンパースカートは、着る人によっては野暮な印象があるのだが、脚が長い彼女にはよく似合っていた。
「じゃ、僕のターンから」
「そういう地味な手で来る？　ならあたしはこう」
　静かに始まったゲームが、徐々に熱を帯び始める。
「攻撃開始」
「カウンター」
「さらに攻撃」
「さらにカウン・ター！」
　紅子が妙なアクセントになっているのも、声が一足飛びに大きくなっていくのも、白熱している証拠だ。
　色とりどりのカードが表返えされ、上下逆に返され、半回転し、滑る。アメコミ風に濃い背景と、ジャパニーズアニメ風に線の細いキャラの描かれたカードが、陣と紅子の間をせわしなく行き交った。
　陣が彼女と再会したのは、あるTCGオフ会だった。最初彼女は走って逃げてしまったが、何度か顔を合わせるうち彼らは、やがてこうして、同じゲームでデュアルしあう悪友的関係に落ち着いたのだった。
「くっだらねー、陣、その手見え見えー」
「紅子こそ、ガードが甘いっつーの」
「そう見える？　だったらシロートね」
「そらこっちの台詞や」
　ディスりあっているものの互いの言葉尻は弾んでいる。山札から決定的な一枚を引いて、彼女がアハッと声を上げた。
　呼びかけようとして陣は考えた。
　そういえば、紅子の本名は何だっただろう？
　知っているはずだ。彼女の名前は、確か……。
「え？」
　寝子島高校の校舎、がらんとした廊下に独り、立ち尽くしている自分に陣は気がついた。
　鼻に感じるのはせいぜいリノリウムの匂いくらいで、ずっと空気中に漂っていたオレンジのような香りは消え失せている。
　夢？
　事態を飲み込むのに時間がかかった。
　夢、か。
　ようやく理解できたとき、たまらなくなって陣は廊下の壁に頭をぶつけていた。
　鈍い音が廊下に、頭の中に、響く。
　――あっち側が本当だったらまぁ……それなりに良い気分でおれたんやろうな。
　もう一度鈍い音が響いた。陣の頭の中に、廊下に。