コロコロ｜リアクション

コロコロ

　マンションの扉を重々しく開ける。疲れ切った表情で深倉理紗子がマンションに帰ってきた。
　暗い部屋のまま、足を引き摺るようにして歩く。コートを着た状態でベッドに倒れ込んだ。
　俯せの姿で顔だけを横に向けた。生気が漏れ出すような息を吐いて、疲れた、と掠れた声を漏らした。
　緑色の瞳が黒い睫毛に覆われてゆく。瞼は閉じられた。寝息は聞こえて来ない。苦しそうな表情の直後、両手がベッドを拒絶した。四つん這いの姿でのろのろと動いて手近なメモ用紙にペンで書き綴る。
『しばらく休暇を取って、どこか旅行に行きたい』
　書かれた内容に微笑み、そっと枕の下に収めた。
　――明日も早朝の六時出勤。
　現実を思い出し、理紗子は真横に倒れた。側頭部を枕に埋めて安らかな眠りへと旅立っていった。

　縦長の窓が朝陽を呼び込む。ダブルベッドに寝ていた理紗子は明るさに目を覚ました。
「もう、朝なのね」
　気だるげに上体を起こす。丸みを帯びた壁には五つの窓があり、部屋の中を柔らかく照らしている。
「わたしの部屋じゃない？」
　さり気なく置かれた調度品には独特な光沢があり、洗練された美が宿っていた。怖々とした様子で歩いて窓から外を覗く。
　一様に屋根は赤茶けていて壁面は白い。尖塔を思わせる建物がちらほらと目に付く。高台から見るような街並みが広がっていた。遠くに目を向ければ明るい青の海が光の粒を纏って輝いている。
　暗い顔にも日が差した。古めかしい木製のポールハンガーに掛けてあったストローハットを被った。備え付けのクローゼットから優しい色合いのワンピースに着替えて部屋を後にする。
　南欧を思わせる街並みに理紗子は軽い足取りで飛び出していった。

　入り組んだ迷路のような坂を下る。石畳には模様が描かれていた。見ているだけで頬が緩む。
　道端では地元の人々が陽気に語らう。現地の言葉で挨拶を受けた理紗子は明るい表情で言葉を返した。
　――異国なのに穏やかな気持ちになれる。
　おかしそうに笑った。
「たぶん、夢よね」
　言い終わったあとに言葉を付け足した。素敵な、と。
　緩やかに道を曲がると白いパラソルが目に留まった。飲食のできるカフェのようだった。
　理紗子は適当にイスに腰掛ける。近くにいたウェイターを呼び止めると、柔らかい仕草でメニューを差し出してきた。
　軽い礼で受け取り、メニューに目を向ける。
　最初に冷たい飲み物を注文した。少し考えるような表情でカース・マルツゥを頼んだ。
　ウェイターは身振りで驚き、即座に柔らかい笑みを浮かべて引き返していった。
　間もなくテーブルにグラスが置かれた。レモン色の液体を喉に流し込む。軽く息を吐いて、美味しい、と口にした。
　そこに最後に注文した品が運ばれてきた。
「え、これが！？」
　蕩けたパンケーキのような物体が皿に乗っていた。訝しい目を向けた理紗子が鼻を近づける。一気に吸って激しく咳き込んだ。
「これ、食べ物よね？」
　置かれていたナイフとフォークを怖々と手にする。物体の端をフォークで押さえ、躊躇ったあとにナイフを中央に刺し込んで一気に切り裂く。割れ目から白い粒状が飛び出し、もぞもぞと皿の上を這いずり回る。
　理紗子は固まってしまった。
　――これってマゴット療法に使われる、アレよね。
「な、なんでこんなものが」
　助けを求めるように周囲に目をやる。料理を運んできたウェイターは態度で、召し上がれ、とにこやかに返してきた。
「……味はいいのかも」
　ナイフとフォークで蠢く物体を弾いて料理の一部を切り出した。断面によく目を向けて一気に口に突っ込んだ。
　頬を涙が伝う。
「酸っぱくて、苦くて……」
　泣きながら感想を口にする。吐き気を堪えながら喉の奥へと流し込む。
「……最高に不味いわ」
　両目から涙を流した。頬をぐしょぐしょにして理紗子は食べた。

　夢から覚めた理紗子は、しばらくチーズを遠ざけた。白いご飯は目を閉じて食べた。
「あの粒々が動き出しそうで怖い」
　後日、夕食を共にした友人に零したという。