●留学生と先輩と進路だにゃーっ！


　そのころ舞台では、銀の髪をオールバックに撫でつけたセルゲイ・ボスコフが、留学生を代表して挨拶を行っていた。
「卒業ハ人生にとって一つの区切りデス」
　彼の声は深く、よく響く。
　黒縁眼鏡の奥の金色の瞳には十代とは思えぬ剣呑さがあったが、口元のにこやかな笑みがそれを隠している。
「伊勢物語にこのような句がありマス」とセルゲイは言った。

『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』
『散ればこそいとど桜はめでたけれ　憂き世になにか久しかるべき――』

　セルゲイが諳んじると、それがあまりに滑らかだったので、会場から拍手が上がった。
「外国からの留学生であるボクは、この句から日本では桜の散り際や別れに対して、特に美しく繊細な感傷を持っているのだなと感じましタ。今日まで色々とお世話になった先生タチ、私には古文を通じて日本文化を教えてくれた担任の永田先生、この国の素晴らしさを学ばせてくれて、本当に感謝しています」
　セルゲイは先生方に向き直る。先生方も感慨深くセルゲイを見つめている。
　彼は立派な体躯を深々と折り曲げると、こう締めくくった。

「今まで、アリガトウゴザイマシタ」

　壇上を降りたセルゲイにマリベル・ロイスが駆け寄る。
「ご卒業おめでとうございます！　私も演奏家の両親の海外遠征に同行して海外をあちこち点々としていたので、留学生代表としての先輩のスピーチには感動しました。日本文化にお詳しいんですね」
「ウン。伊勢物語第八十二、最初のは右馬寮の長官――在原業平の句だといわれていて、『この世の中に、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに』という気持ちを詠んだ句だそうだ。次の散ればこそ、は紀有常の句で『桜は惜しまれて散るからこそ素晴らしいのだ。世に永遠なるものは何もない』という意味だそうダヨ」
「寂しいけれど永遠でないからこそ素晴らしい――、卒業の門出にピッタリな句だったんですね」
「日本のワビサビの心ダネ。でも――」
　セルゲイはそこで言葉を切り、口の中で小さくつぶやく
「散る花は美しいが、永遠に散らない花はどうだろうか……」
「え？」
　マリベルはよく聞こえずに聞き返す。だがセルゲイはにこりと笑みを浮かべるだけだった。
「ウウン、何でもないヨ」

◇

　セルゲイの話に大いに拍手を送ったのち、ごくふつうの男子高校生な佐藤 英二は、ごくふつうに後輩として礼儀正しく海原 茂に話を聞いた。
「海原先輩は、寝子高での一番の思い出って何ですか？」
「一番ってのは決めにくいな」と茂は答える。何しろいろいろありすぎた。
「敢えて言えば？」
「敢えて言えば――」
　茂はちょっと悪戯っぽい顔つきになって声を潜めた。
「君は『おちこぼれ姫』シリーズは知っているか？　そのおちこぼれ姫に会ったんだ」
「え？」
　この反応からは英二がおちこぼれ姫を知っているのか知っていないのかは計り知れない。
　茂はおちゃめに片目を瞑る。
「寝子高での思い出じゃなかったな」
「えーっと……」
　何と言っていいか困った英二は、そばにいた仙藤 紫にも同じことを聞いてみた。
「先輩はどうですか？」
「そうね……」
　紫は落ち着いた雰囲気で小首を傾げる。感極まって泣いたりしないのは、別にこの高校での思い出が嫌なことばかりだったからじゃない。むしろいい思い出のほうが多かったな、と思い返す。でも一番と言われれば、今真っ先に浮かぶのは――。
「高校三年の夏休み最後の日に、一年付き合った恋人と別れたこと、かな」
「そ、それは……」
　バツが悪そうな顔をする英二に、紫はゆとりある笑みで言ってのける。
「気にしないで。胸が痛まないかと言ったら嘘になるけど、それもだいぶ和らいできたところだから」
「そうなんですね。なんか先輩、大人ですね……」
「君だって恋くらいするでしょう？」
「恋、ですか……」
　胸に押し寄せるさざ波。
　英二は自分でもよく分からない焦りを感じ、話題を変えた。
「仙藤先輩は進路は？」
「木天蓼大学の文学部心理学科に進学予定よ。心理学の研究者かカウンセラーになりたくて」
「海原先輩は？」
「俺も木天蓼大学。社会学部さ」
「夢とかあるんですか？」
「夢は、まだない」
　言い切った茂があんまり堂々としているので、三人は一瞬顔を見合わせたのち、吹き出してしまった。

◇

　一方、羽生 碧南はバスケ部の三年生の先輩方を前に、ぐすっと鼻を啜っていた。
（まだ泣いちゃダメだよ。笑顔で送り出さなきゃ）
　家が火事で燃えてしまったときとは、また違う悲しさ。寂寥感と呼ぶのだろうか。
　三年の先輩方とは一年しか付き合いがなかったけど、それでもいろいろと教わったこともあったし、とてもよくしてもらったことを、昨日のことのように思い出す。
進路のことで思い悩んだ時相談に乗ってくれた。先生にスポーツ推薦を進められたが、火事の影響で経済的な不安があったのだ。
　そのことについて感謝を告げると、「大げさな」と先輩は笑った。
「あのあと経済的事情が好転して、進路について少し余裕をもって考えられるようになって……もっとも別な悩みもできたけど」
　親族間の人間関係のトラブルだ。そっちが今は頭が痛い。
「困ったときはいつでも連絡してきなって。話くらい聞くからさ」
　先輩は体育会系らしくさばさばと言い切り、碧南はまたじんとして、涙を堪えなければならなかった。
「そ、そういえば覚えてます？　他校との練習試合のとき私ドジって味方ゴールにシュートしちゃって……」
　碧南はわざと失敗談を語って場を和ませる。
「そうそう。碧南ってときどきおっちょこちょいよね」
「それにけっこう度胸があるっていうか。ハロウィンでバニーガールしてたでしょ？」
「寝子祭ではビキニだったし」
「この前の青春ギフト・マラソン大会ではとうとう裸リボンに……」
　先輩たちが口々に思い出すのを、碧南はわわわ、と手を振って打ち消す。
「どれも先輩たちの“たっての願い”でしたよね！？」
「「「そうだっけー？」」」
　口を揃える先輩方。明らかに碧南をおちょくっている。
「その先はというとー？」
「裸リボンの先って何ー？」
「ずばり『裸リボン -（ひく） リボン』ですかー？」
　それは裸ではないか！
「さすがにそれは“たっての願い”でもやりませんから！」
　全力で拒否した直後、碧南の目から、ぽろぽろ涙が零れだした。
　慌てる先輩たち。
「わわ、ごめん、冗談だよ？」
「わかってます。ただ、先輩たちともうこうやって過ごせなくなるのかと思うと、なんか……あ……あれぇ？　おかしいな……なんで涙なんて出るのかな？　……やだ、泣いちゃうなんて……」
　拭っても拭っても、碧南の涙は止まらない。
　この涙を切欠に、バスケ部女子は、先輩後輩入り混じって抱き合って泣き始めた。
　当たり前だ。
　チームメイトというのはともに苦楽を乗り越え、感動を共有し合ってきた仲間なのだから。

◇

　八神 修は、バスケ部女子たちの涙の光景をカメラに収めた。
　すっと横に滑らせたカメラのフレームに、射撃部の先輩である河島 澪が映り込む。
　澪は臙脂の襟の男子制服を英国紳士の如く着こなしていた。妖艶で切れ長の瞳が、修に気づいて瞬きする。
　修は撮影の手を止め、澪に話しかけた。
「先輩。卒業おめでとうございます」
「うん」
　先輩はスマートに頷き返した。修の目から見ても素晴らしく紳士的だ。
　澪との短い挨拶を済ませてまた撮影に戻ろうとした修は、皿に一口おにぎりやかき揚を載せて美味しく楽しんでいる様子の龍目 豪に話しかけられた。
「美形な人だな。あんな先輩、いたっけ？」
「ええ、射撃部の三年生で。世話になったんです」
　修はそれ以上のことは特に告げなかった。
「ふうん」
　豪は興味を失った様子でかき揚を頬張りはじめる。知らない先輩なんて山ほどいる。さほど不思議ではないのだ。ただ、美形だったからちょっと目を引いたというだけで。
　まさか、あとでその美形の先輩と縁があろうとは思いもせずに。