翼の日｜リアクション

翼の日

【７】解放の翼

　明け方。
　三宅葉月は、ふと目覚めた。
　そこは、星ヶ丘寮の彼女自身の部屋だ。
　枕元の時計に目をやれば、まだ起きるにはずいぶんと早い時刻だった。
　彼女はもう少し眠ろうと、目を閉じようとして背中に違和感を感じる。
　首元まで掛けてあったはずの布団はまくれあがり、身動きするたびに背中からまるで何かを揺らすような、バサバサという音がするのだ。
（何かしら。背中に何か……）
　眉をひそめて訝しむ彼女は、自分の背中に手を回す。
　と、そこには大きく張り出したなめらかな手触りの何かがあって、彼女は更に眉根を寄せた。
　ベッドから降りて、寝室の壁にかかった姿見の前に立つ。
「な……っ！」
　思わず低い声が出た。
　鏡に映る彼女の背には、四枚の大きな黒い翼が生えていたのだ。
（黒い翼……。まるで、悪魔の羽根のようだわ……）
　少しおちついて来ると、彼女は改めて鏡に映る翼を眺めて、そう思う。
　実際それは、悪魔の翼といってもおかしくない大きさと黒さを持っていた。
　だが、それはゆるく波打つ緑色がかった黒髪と翡翠を思わせる緑の瞳を持ち、緑と黒を基調としたアンティーク調の寝間着を身に着けた彼女を、引き立てて見せている。
　姿見の前に立つ彼女の姿はまるで、高貴な女悪魔のようでもあり、また黒い翼をまとった等身大のアンティークドールのようでもあった。
（翼があるということは……空を飛べるかもしれない……？）
　しばし姿見の前に佇んでいた葉月は、ふとそんなことを思った。
　姿見の前を離れ、窓を開ける。
　冷たい空気が流れ込んで来て、彼女は小さく身を震わせた。
　少し考え、ベッドの上に置いてあったストールを翼に引っかからないよう気をつけて羽織り、再び窓辺に立つ。
　そのまま、翼を広げて羽ばたかせてみた。
　体はふわりと浮き上がり、あっという間に窓から外に出て空へと舞い上がる。
　外の空気は凍るように冷たかった。
　だが、彼女は更に大きく翼を羽ばたかせ、高く飛んだ。
　寮の建物がたちまち小さくなって行き、彼女の視界には星ヶ丘の街並みと遠くに輝く海が広がる。
（ああ……！）
　彼女はその風景を見下ろしながら、強く圧倒的な解放感に包まれるのを感じた。
　同時に胸の奥底から、強い歓喜が湧き起こり、彼女は飛ぶ速度を上げる。
　高く、早く、遠くへ向かって――ただ、飛び続ける。
　そうやって得る解放感は、絵を描いている瞬間に似ている――と、ふいに葉月は感じた。
（この解放感は、知ってはいけないものなのかしら）
　背後をふり返り、自分の背に生えた四枚の黒い翼を見やって、彼女は胸に呟く。
　黒は、忌むべき色だと人は言う。
　そして、黒い翼を生やした悪魔は、人を堕落させる存在だとも。
　はるか昔、悪魔に自由と解放感を見出した女たちはそれを崇拝することで魔女と呼ばれ、異端者として断罪された。
　それと同じように今もまた、自らを解放しようとする行為を、よしとしない者がいる。
　そういう者たちにとってはきっと、絵を描くという行為は禁断の果実に等しいものなのだろう。
　だから、その果実に手が届かないように高いハードルを設け、それを求める者の心をくじこうとするのだ。
　漠然とそんなことを考えながら、葉月はただ飛び続ける。
（今はまだ遠くへは行けないけど、いつか翼を得て、遠いところへ行けるのだろうか……？）
　胸に兆すのは、そんな思いだった。
　そう、翼があれば、高い障壁をも飛び越えて、高く遠く、ただ自分の望み、目指すところに向かうことが可能になるだろうから、と。
　飛び続けるうち、明け方のほの暗かった空が明るくなり、あたりに朝の匂いと温かさが満ち始める。
　その光とぬくもりを感じながら彼女は、なおも空を飛び続けるのだった――。

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