寝子島、アクアアルタの日｜リアクション

寝子島、アクアアルタの日

　星ヶ丘寮のカーテンを開けた時、三宅葉月はあまりの眩しさに目を細めた。ようやく慣れた葉月の瞳に映ったのは、海岸線が寮のすそ野まで浸食している水の風景。
（―――アクアアルタ）
　葉月は瞬間理解する。そして時間も空間も超え、彼女は３年前の大切な記憶へと旅立った。

　アクアアルタに遭遇したのは１４歳の冬休み。今は亡き祖父とヴェネツィアを訪れた時だ。
　冬のヴェネツィアはオフシーズンで人が少なく、一面水に覆われたサン・マルコ広場にも彼女と祖父以外人影はなかった。
　水面に街並を映す広場はまるで別世界のように静まりかえり、普段の賑わいなど嘘のようだ。
　葉月と祖父は言葉もなくその広場に溶け込んでいた。葉月は全てを支配する静寂の中、素晴らしい光景に時間も忘れて心の赴くままに想像を巡らしていた。それを理解し、ただ黙って葉月に寄り添ってくれる祖父。葉月は安心して、祖父の前では想像の翼を羽ばたかせる事が出来たのだ。
　静かに水をたたえる異国のサン・マルコ広場。少女と老人の姿は絵の中の小さな人物のように、ずっと動く事はなかった。

　―――そんな自分を優しく見守ってくれた祖父はもういない。
　葉月の意識が現実に戻ってくる。そして彼の残してくれた優しい記憶、同時に湧き上がる喪失感に、葉月は目を見開いたままぽろぽろと涙を零した。
　どのくらい窓辺で佇んでいたのだろうか。葉月は窓に背を向け、身支度を始める。そしてスケッチブックや画材を入れたトートバッグを肩にかけ、星ヶ丘寮を出た。

　気温はこの時期にしては温かで、水温も思ったより冷たくない。あてもなく葉月は水没した街を逍遙する。
　そんな彼女の姿はまるで森の精霊が森を抜け出し、静かに水の都を楽しんでいるようで。
　一面の水に密やかに浮かび上がるその佇まいは幻想的な風景と相まって、まるで１枚の絵画のようだった。

　葉月は画材こそ持参したものの、その場で描くつもりはなかった。
　今はしばらく、水上遺跡となった寝子島の姿を自分の心の中に刻み込み、思うままに想像を迸らせるのだ。
　様々な光景が祖父との旅の記憶と重なり、葉月の中で新たな世界となって生まれていく。
　隣に祖父の姿はないけれど。
　葉月の想像の翼は寝子島に大きく羽ばたくのであった。