寝子島、アクアアルタの日｜リアクション

寝子島、アクアアルタの日

「わーすごいなぁ……」
　キラキラと乱反射する日差しに目を細めながら、猫島寝太郎は呟いた。目の前に広がる一面の水はどこまでも続き、楽しい冒険に寝太郎を誘っているようだ。
　自宅の『猫島寝具店』の品物も濡れず、店の手伝いを終えた寝太郎は、マリンシューズを装備し自転車を携え自宅を出たのである。
「どこまで行けるかな」
　大通りを見渡せば、通り過ぎていく自転車達が上げた水しぶきに小さな虹がかかっている。そのパステルカラーの光景に楽しくなりながら、寝太郎はクンッとペダルを踏んだ。

　シーサイドタウンまで来た寝太郎は、路面のタイルが水底にゆらゆら揺れる様を眺めながら自転車を押していたが、その耳に女の子達の笑い声が飛び込んできた。
「この声は……ののこちゃんぽいよねぇ」
　寝太郎は駅前の広場を覗いてみる。そこには野々ののこと可愛らしい女の子が楽しそうに水をぱちゃぱちゃと跳ね上げていた。
「ののこちゃんと……未明（ほのか）せれねさん！」
　思わず寝太郎が叫ぶ。ののこの隣にいる女の子は確か地元アイドルグループ『Citrus Cat's』の一員だったはずだ。女の子が寝太郎の声にパッと振り向いた。
「ハイ、せれねです！　……でも今日はステージの上じゃないから、夢宮瑠奈だよ～」
　そう言うと瑠奈はほわりと笑った。

　ののこと瑠奈は足下をすいすいと泳ぐ魚を捕まえようとしていたらしい。寝太郎も自転車を置いて参戦し、しばし３人はきゃいきゃいと街中での海遊びに夢中になった。
　結局魚は捕まえられなかったが、楽しい時間を３人は過ごす。そしてびしょ濡れになったののこは笑いながらもう帰ると言い、瑠奈は散歩を続けると言うので、寝太郎もまた自転車散歩を再開すべく、２人に手を振った。

　思いもかけない楽しい出会いに心をほっこりさせた寝太郎は、今度は星ヶ丘まで辿り着いた。
　高級住宅が建ち並ぶ星ヶ丘の風景はすそ野に水をたたえ、まるで異国のようだ。その光景にしばし見惚れながら自転車を押していた寝太郎は、角から出てきた人物に慌てて立ち止まる。そして目を見開いた。
「鷲尾先生じゃないですか！」
　それは寝子高保健教諭鷲尾礼美だった。寝太郎の声に相変わらず重そうな胸をぷるりとさせながら、礼美がぐうっと目をしかめた。
「えーと、寝子高の生徒かしら？　ごめんなさい、私眼鏡落としちゃって今全然見えないのよ……」
　確かに礼美がいつもかけている眼鏡が今日は見当たらない。見えづらい状態ではさぞ大変だろうと思った寝太郎は、笑顔で礼美に言った。
「１年の猫島寝太郎です。自分も探すの手伝います！」

　そして２人は並んで眼鏡を探し始めた。が、件の眼鏡はすぐに見つかったが、プカプカと浮いては流れ、手からするりと逃げ出してしまう。なかなか手強そうな鬼ごっこである。
　それでも一生懸命に探す礼美の様に、寝太郎はついつい見とれてしまう。
（……素顔の先生も美人だな～）
　俯き加減に水面を見つめ、少ししかめられたその表情。
　はらりと落ちる長い髪を無造作にかき上げる仕草。
　白衣を羽織っていないその私服姿は、いつもより胸元が強調されている気がする。
　健全な男子高校生の寝太郎は、いつの間にか礼美の姿に釘付けになっていた。
　視界がぼやけながらも寝太郎の視線に気が付いた礼美が不思議そうに寝太郎の方に振り向いた。
「猫島君、どうしたの？」
「えっ？　いや、な、何でもないです！」
　顔を赤くしながら寝太郎は慌ててまた眼鏡を探し始める。その様子に首を捻りながらも礼美がくすりと笑った。

　なかなか終わらない眼鏡との鬼ごっこ。それでも何だか心が躍ってしまうのは何故だろう。眼鏡を捕まえられる頃には、水面いっぱいを夕陽が赤く染めているかもしれない。
　その光景を礼美と眺められるのも素敵だなと思いながら、寝太郎は青空を映す水面に礼美の眼鏡を探すのだった。