暗澹の頁｜リアクション

暗澹の頁

　死の円舞(ワルツ)は蛇那伊にとって得意とする分野。
　無貌の女がゆらりと起きあがったのを見詰め彼はぺろりと舌舐めずりをした。
「全力でいきましょ？」
　す、と大きく息を吸う。駆けた彼の膚に滲んだ汗は落ち付き払うと共に引いて行った。
　ずるりと床に座り込んだ楓子を引き摺り上げて、懸命に彼女を運ばんとする美咲紀へと「先の保健室で落ちあいましょ」と蛇那伊は小さく告げた。
「先にいってるね？」
「ええ。ここはアタッカーに任せて頂戴？」
　またね、と一瞥を交えて美咲紀は走り出す。対する蛇那伊はチェーンソーを鈍く響かせた無貌の女をじっくりと舐める様に見つめ、周囲の状況を確認する。
　古びた木造建築は歩むたびに酷い音を奏で、軋む様に揺れている。ホラーテイストと言えば聞こえは良いが、生死を掛ける闘技場にしては余りに不出来だ。
　通常の校舎ではあるが教室数は少ないのだろう。三階建て――横に長く、西と東に折れる様な形になるこの場所は中央、そして曲がり角に近い場所になるのだろう。
　ぁ、や、ぅ、といった声を漏らす女の様子は余りにも滑稽だ。
　その細腕に似合わぬ獲物は絶えず稼働音を鳴らしているではないか。落ち着き払った様子の蛇那伊へと狙いを定め、軋む床を蹴った女の身体が文字通り『跳ねた』。
「案外、上手に動くのね？」
　狭い廊下で避けるのは難しい。ステップを踏む様に身を乗り出す。女の筋肉の動き、間接の可動範囲外にその身を反らし、宙を泳ぐ様に捻り上げる。突き立てる様に床へとチェーンソーを突き刺す女の背を足場の様に蹴り、鍛えた腕が床を付く。
「どうかしら？」
　聴覚が女の握る刃の駆動が早くなった事を告げる。視覚が女そのものを捕えて離さない。
　嗅覚は僅かな血液の匂いを感じとる。触角はざらりとした床が確りしたものだと伝えた。
「生きてるの？　それとも――死んでるのかしら」
　ぁ、と低く唸る様に返した女から返答は得られないのだと俄かに肩を竦める。
　絶えず回り続ける刃にこびり付いた茶に色付く滲みは血痕であろうか。息を付けて飛び込んだ女の刃を固めた拳で弾けば、襟口を掴まんと細腕が飛び込む。
　油断では無い、女の速さに瞬時の遅れを出した只の一瞬だった。
　異形と生身の生物ではこうも動きの差があるのかと愕然と彼女を見上げる。
　ッ、と鈍い声と共に引き倒された巨躯へと馬乗りになった女がケタケタと壊れたカセットテープの様に笑いだした。
「ヒッ――ヒヒッ――ウヒヒヒヒヒッ」
　がんっ、と柄の部分が俄かに叩きつけられる。

「ヒッヒヒヒヒヒ――――ッアッハハハハハ――――！！！！」
　嗤声が響き渡る廊下で蛇那伊は『死なない』ということを理解した。跳ねあげる様に馬乗りになった体を両腕で押しのけて、煤汚れたシャツを叩く。
　取りこぼしたチェーンソーをゆっくりと持ち上げて、再度ぐぐ、と軋んだ音を奏でた彼女の眼前へと蛇那伊は飛び込んだ。
　筋肉が軋む。ぶちりと音を立てる様に伸び切って――地面を力強く蹴りあげる。
　微かに鼻先を擽る血痕の匂いから女が何処からか出血しているのだと気付いた。
　やや引き摺る様に足を上げた彼女は蛇那伊の一撃で確かに『右足を負傷していた』。
「やるじゃない、アタシ」
　傷も痛みもなかったかのように女へと飛び込んでゆく、無貌の奥の暗闇で、女の表情は確かに笑った様な気がした。