暗澹の頁｜リアクション

暗澹の頁

　息を切らし走り続ける。金属の擦れる音と共に響く警鐘(わらいごえ)は脳をぐらぐらと揺らす。
　夜空に説明を受けている刹那、殺人鬼が現れ彼らを追い回したのだ。
　結果として夜空を先に逃がし、囮となった衛は校舎を走りまわる。
　足が縺れそうになりながら懸命走る衛の背後にぴたりと張り付いていた女の脚が止まる。
　息を吐き、顔を上げた卯木衛の目の前には『図工室』と掲げられたプレートがあった。
「……何だよ、ここ……」
　微かな話し声に、人の気配が二つ。会話の内容は現状を把握するのにぴったりだ。
　扉をゆっくりと開き、中の人影が動きを止めた事を確認して後ろ手に扉を閉めた。
　その向こう側を女がゆっくりと歩いて行くのを感じる。獲物を探す様に、教室内へと入った衛のことなど知らぬかのように――女はゆっくりとゆっくりと歩いてゆく。
　息を潜め、女が遠ざかるのを衛は待った。この教室に何者が居るのかは分からない、それでも現在の最大の敵は廊下を練り歩いているのだから。

　遠ざかる足音に、汗でじっとりと濡れた掌が僅かに脱力していくのを感じた。
「誰か、いる……？　夜空くん？」
　確かめるように声をかけた衛へとひょこりと顔を出した翠響が安堵したように息をつく。
　続いて顔を出した夜空は泣き出しそうな顔をして「無事だったんだ……よかったぁ」と呟いた。

　探索をすると図工室を後にした翠響を見送って衛はへたり込んでいる夜空へと視線を送る。
　チャックの意匠の付いた黒いマスクは幼さを感じる少年の顔には不似合いだ。
　赤黒く染まった――それは、誰かに言われるまでもなく『血』であると認識出来た――シャツを見遣った衛はその世話焼きな性分からか、「えっと……夜空くん、あのさ……」と少年の隣へとしゃがみこんだ。
「は、はひ……」
「怪我？　してるのか？」
　やや吊目がちの瞳は伺うようだ。それは敵意でもなく、それと同等の警戒心でもなく、心の底からの疑問だったのだろう。怪我をしているなら手当てをしなくちゃと保健室の位置が把握できていない事を惜しむ彼へと夜空は「け、がは……」とぽつりと零す。
「こ、転んだだけ、なんだけど、ここは……『死ねない』、から」
「死ねない？」
　唐突な絶対的な法が如く少年の前へと聳え立つのは死ねないという事実。
　夜空は「死ねないし戻れないから生きている」と簡単に事実だけを述べた。
　普通の学校と何ら変哲は無い、しかし『異世界』なのだというのだから不思議と思いながらも頷く他にない。
「だ、だから、傷は――……痛かったけど、もう、痛くなくて」
「大丈夫ならいいんだ。コレ、使えよ。あの女……無貌の女だっけ？
　守ってやるとか、かっこいいこと言えねえんだけどさ、逃げることの手伝いなら俄然はりきるから、夜空くん一緒に行かねえ？」
　こくりと頷く彼を見て衛は不思議に思う。

　死ねないというルールを提示する少年。
　被害者の様な表情をした彼が『無貌の女』について把握しているという現状。
　痛かったけど痛くないという言葉から彼の傷の様にも思える。
　だが、どうだろうか。怪我をしたのに傷がないというのは不自然ではないだろうか。
　足の速い彼女に追いかけられ、一度は逃げ切った自分を追って来なかった理由は――

「衛、くん……？」
　首を傾げた夜空の様子に衛は「何もないよ」と手をひらりと振って合図した。

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