君が泣いた日｜リアクション

君が泣いた日

●篠原翠響が泣いた日

　喧嘩の切欠はいつだって些細なことだ。その日の体調だったり、気分だったり、それまでに積み重なった小さなことだったりが爆発して感情的になってしまう……わかってはいることだけれど、どうしようもないことでもある。
　あの時もそうだったと思いながら、翠響はグレーのハイネックニットに黒のスキニーデニムという出で立ちに、この冬に買ったばかりのネイビーのダッフルコートを合わせて新年最初の練習へ向かう為に歩いていた。
　昨年の最後の新体操の練習日のことだった。

「いいよねー翠響は！　そんなに必死にならなくても、なんでもできちゃうんだからさ」

　どんな気持ちでその子が言ったのかなんてわからないけれど、どこか嫌味のような響きを感じて翠響は酷くカチンときてしまったのだ。他の子が言ったのであれば、できない人間の僻みだと割り切ることもできたかもしれない。
　けれど、それを言ったのは翠響が一番仲がいいと思っていた子だった。売り言葉に買い言葉とばかりに、翠響もつい言ってしまったのだ。

「できないのは練習量が足りないからじゃないの？　人のことを羨む前にもっと練習したらいいじゃない」

　相手が必死に練習をしていたのは知っていた。知っていたけれど、言わずにはいれなかったのだ。顔を真っ赤にして相手が反論してきたから、翠響もそれに応戦する。やがてそれは、コーチや周囲のチームメイトに止められる程の言い争いになっていた。
　宥められるままにその場は一旦収まったものの、練習が終わって着替えている最中に再びその子と口論になった。それはそのまま、打ち上げの場にまで引き摺ってしまい周囲が宥めるのも聞かずにお互いヒートアップしてしまったのだ。
　どこかでお互い、言い過ぎているとはわかっていたのかもしれない。けれど、感情的になってしまった１０代の女の子にそれを途中で止める手立てなどなく、言ってはいけないであろう言葉を彼女は言ってしまった。
　それを言われた瞬間、翠響の頭の中は真白になった。それから、赤い色に。気が付けばその子の頬を平手で、思いっきり叩いていた。乾いた音がその場に響いて、叩かれた相手は呆然としていたような気がする。
　それは多分、今まで何を言われたって涙など見せたことのなかった翠響がポロポロと大粒の真珠のような涙を流していたから。苦しそうに、辛そうに、嫌悪を含ませた顔を歪ませ、涙で震える声で翠響は叫んだ。

「……あんたなんか大っ嫌い！」

　泣きながらその場を飛び出して、そのままどうやって帰ったかも覚えてはいなかったけれど自分の部屋に飛び込んで、ただひたすらに泣いた。泣いて泣いて、涙が枯れ果てる頃には意識を手放していた。
　そのまま、心のどこかに重たい気持ちをを残したまま新年を迎えて今に至るというわけだ。
　気が進まないけれど、新年最初の練習をさぼるわけにはいかない。溜息を零しながら着替えに向かえば、喧嘩した彼女と目が合ってしまった。気まずくて、どちらからともなく視線が逸らされる。
　その日の練習は翠響も彼女も、どこか身が入らずコーチに怒られる始末だった。
　このままじゃいけないと思いながら、スポーツセンターを出たところで後ろから声を掛けられた。

「あのさ」

　振り向けば彼女がいて、どんな顔をすればいいのかわからなくて翠響は黙る。

「この間は、ごめん。……言い過ぎた」
「あ、あたしも……！」

　先に切欠を作ってくれたのは彼女だった。謝罪の言葉に跳ねるように顔を上げて翠響は彼女を見た。

「あたしも、叩いちゃってごめんなさい」

　そう言うと、彼女はぎこちなかったけれど笑ってくれた。翠響も、同じように笑っていた。今すぐには無理かもしれないけれど、少しずつ元通りになれたら……そう思いながら彼女たちは歩き出す。
　胸の中の重たい気持ちは、いつの間にかどこかへ飛んでいったような気がした。