【ふにゃ始め】

（……ひと目見れば、分かる）
　ぴり、と走る緊張。ごくりと喉元を鳴らした日暮 ねむる、彼だからこそ、理解の及ぶ領域。この感覚……彼の知識と理性が、今、全力で警告を発しています。
　彼には、分かっていたのです。
（これに座った、その瞬間に……僕は、やられる）
　そのソファが備える、恐るべき心地良さが……！
　道端にて、目の前に突如として現れた、一脚のソファ。彼とて、これが神魂による何かしらの現象であることは分かっているのです。その上で、
「……コーヒーの香り、か」
　す、とブラウンカラーの背もたれに手を添え、カバーの手触りを確かめた後。ねむるは漂う香りを吸い込み、靴を脱ぎ……そっと、身を横たえました。最初から、自分がそうするであろうことは、分かっていました。
　抗うことなど、できはしまい……と。
（……思ったより、硬い？　僕の買い被りか、これじゃ寝心地には期待できそうにな……いや。待てよ？　まさか……これは！　この硬さがゆえに、最適な寝姿勢を、完全に、完璧にサポートしているっていうのか？　そうか……知っているぞ。僕はこの感触を知っている……これは）
　旧市街は参道商店街に軒を構える寝具店、『ふとんのひぐらし』の一人息子であるところのねむるです。当然のごとくに、彼は気付きました。
（───高反発マットレスッ！）
　そう、昨今優れた寝心地を実現するその代名詞として名を馳せる低反発マットレスには、その柔らかさがゆえに腰痛の原因となったり身体に負荷がかかるというデメリットがあり、その対となる選択肢として存在するのがこの高反発マットレス、人間の理想的な睡眠姿勢を保ち負担をやわらげてくれる上に、耐久性や通気性も高く長持ち……という、このソファに使われているのはまさしく、高反発マットレス！
（ただし高反発の難点は、その価格。誰にでも気軽に手が出せるものじゃない……お？）
　と、ねむるはそこで、ソファが秘める更なるスペックを垣間見ることとなりました。
（座面に感じる、この感触……嘘だろう？　まさか、マッサージチェアとしての機能まで備えてるっていうのか？）
　凝った箇所をピンポイントにほぐしてくれるソファに、思わずねむるの顔は緩み、
「はは……まるで、ほぐしセンスの塊みたいなヤツだね」
　そんなつぶやきが漏れるのです。
　さらに言うなら、ゆったりとしたソファに寝そべる彼を包み込むのは、音楽……内蔵スピーカーからちょうど良い音量で流れるハワイアン。頭にこつんとぶつかった何かを取り上げてみれば、アイマスクのような形の、
（……電動ホットアイマッサージャーまで。はは……参ったな）
　穏やかな微笑みを浮かべた彼からはもはや、得体の知れない現象に抵抗しようという少なからずの意志は全て奪われ、
（これはもはや、椅子とかソファとかじゃない。その概念を超越した、寝具……否！）
　心からこの眠りを、堪能するのみ。
「神具だ。はは、も、だめだ…………ね、む……ｚｚｚ」



　と、いったわけでありまして。
　寝具屋の息子であるねむるくんがああまでコロリといってしまうくらいの、これがもう神魂による強烈にキモチイイソファなものですから……普段からきりきりとして厳しい桐島 義弘先生なんて、さぞ疲れも溜まっていらっしゃることでしょう。ひとたまりも無かったわけでして。
「ああ～……最高だなぁ。ずっとこうして、だらだらしていたいなぁ……」
「だ、ダメですよ、義弘先生。学校に行かなくちゃ……起きて下さい、ほら」
　そんな彼を慕う、宮祀 智瑜。健気な彼女が、くいくいと腕やら足を引っ張ってみても、
「ははは～、宮祀～。このソファは良いぞぉ～、お前も一緒に、ごろごろするか？　ははは～。さーて、タテのカギの４は～っと」
「クロスワードパズルしてる場合じゃないです、先生……！」
　もーまったくもって先生、動く気配ナシ！　ごろごろとだらしなく、イチゴ柄の可愛らしいカバーに包まれたソファに寝そべったまま、のんびりと雑誌のパズルなど解いております。
　とはいえ実のところ、智瑜もまた、強烈な葛藤に襲われていたりします……何しろ目の前には、愛しの義弘先生。彼、今やかつてないほどにふにゃふにゃで、隙だらけなのです。例えば智瑜が誘惑に負け、えいやっ！　と彼の横に開いたスペースへとダイブしたなら……好きな人と思う存分に、ごろごろ。あるいは、イチャイチャ！　できてしまいそうなのです。
　けれど常識人で律儀な彼女のこと、それに何より、先生がこのままダメになってしまうのを捨て置くわけにも行きません。
「……さ、先生、学校へ行きましょう？」
「今日はな、宮祀。学校は、自主的にお休みだぁ～」
　テコでも動きそうにない先生を、智瑜は頑張って真人間へと戻してあげようと、奮闘！　カバンから数学の教科書にノートなど取り出しまして、
「実は、数学で分からないところがあるんです。先生、教えてもらえませんか？　ソファーから起きて……」
「ん～？　いやぁ、このままでも教えてやれるさぁ～。ほら、どこが分からないんだぁ～？」
　ころん、と転がった先生がにっこり笑いながらそう言ってくれるのには、ついついほっこりしてしまいながらも。今度は道行く知らない女性をぴっと指差して、
「あっ、先生！　あんなところに、おっぱいの大きな女の人が……ほら、起きないと見えないですよ？」
「んん～？　どれどれ。ああ、本当だ」
「って、私じゃなくて……！　先生のえっち！」
「はっはっは～、宮祀は面白いなぁ」
　智瑜のお誘い、頑張りときたらその都度魅力的でありまして、大変に頑張ったと言えましょう。その後も、先生の趣味嗜好や感性に訴えかけるあの手この手で、どうにかこのキケンなソファから引っぺがそうと試みますけれど……どれもいまひとつ、効果は見込めず。努力の甲斐なく先生は、はっはっはぁ～とゆるーいお顔で、ごろごろだる～ん、ふにゃふにゃ～ん。実に、気持ち良さそうにしております。
「うぅ～……」
　彼女の我慢が、いつしか限界点をひょいと飛び越えてしまったとしても、誰に責めることができましょうか！
　と、いうわけで。ひとしきり、どうしようこのままじゃ……でも先生と一緒に、ううんダメダメ！　でも……なんて悩んで、葛藤した後に。
「もう……我慢できませんっ。義弘先生ーっ！」
　ぴょーん！　あえなく智瑜はソファの誘惑に敗北、先生の横へとダイブッ！　ぽふんと横になりまして。むぎゅっ！　と先生を、抱き枕状態！
「ははは～、来たのか宮祀～。どうだぁ～、気持ち良いだろう～？」
「はい～。もう……幸せです～！」
　ソファは思った以上に寝心地良く、それにそれに、愛しの先生へ公然とむぎゅっ！　できるとあって、もう。智瑜は、至福！
「はふぅ、最高です～……先生、クロスワードパズル、一緒にしてもいいですか～？」
「もちろんだとも～、一緒に考えようじゃないか～。ああ、そういえば少し、小腹が減ってきたなぁ～」
「はいっ、先生、お菓子ですよ～。あ～ん……」
　ぱくっ！　ぴったりとくっつきながら、ベジタブル味のスナックなど口に入れてあげまして……すぐ目の前に、幸せそうな義弘先生のお顔があるのです。智瑜はちょっぴり照れくさくて、頬っぺたを赤くしながらも、
「もう、ここから動きたくないです。先生、今日はこのままずーっと、ゆるゆるふにゃーって、してましょうね……？」
「ああ～。最高の一日だなぁ～」
　ふたりはそのまま、いちゃいちゃごろごろ。思う存分、幸せなひと時を楽しんだのでした。



「ｚｚｚ……このそふぁは……きけん、だ。すわったら……みんな、ゆるゆる、だるだる……みんなに、つたえない、と…………すぴぴー」
　寝具屋の息子たる使命感のようなものでしょうか、ねむるの寝言には、そんな言葉も混じってはおりましたけれど……でも、ぐっすり。すやすや！
　かくして通称『人をダメにしちゃうソファ』現象は、寝子島全土へずずいっと広がりまして、多くの人々をダメにしちゃうのでした。
　さあみんなで、レッツ・ゆるふにゃ！