目の前で親父が眠っている。
呼吸器を口元にあてがわれ苦しそうに息を吐く面差しからは血の気が失せ、憔悴の色が濃い。
殺しても死なない位しぶといのだけがとりえのくせに、パイプ椅子に所在なく座った私の目と鼻の先、ベッドに横たわった親父からは生命力が感じられず不安になる。
どうしてこんな事に。
固く組んだ手に額をつけて俯く。
神様、どうか。
キツく瞠目し、一度も会った事もない神様に一心に縋りつく。
覚悟していた、なんて嘘。心のどこかで油断していた、親父は口うるさくてうざくって、私がお嫁にいくまで一つ屋根の下で喧嘩しながら馬鹿やってけるって、そんな日がいつもいつまでも続くって信じきってた。とんだ思い違い。
『危ねえひーちゃん!』
鉄砲玉から私を庇い咄嗟に飛び出す親父、耳を劈く怒鳴り声。
腰が抜けた私の前に敢然と立ち塞がる広い背中、小さい頃いつもおんぶしてもらったあったかい背中。
乾いた銃声に一呼吸遅れて崩れ落ちる背中をへたりこんだ私はただ見守るしかなくて、血相変えた舎弟が駆けつけて救急車の手配をするまで、親父に膝枕して放心してるだけだった。
お嬢、しっかりしてくだせえお嬢!
肩を激しく揺さぶられ、耳元でがなりたてる声で正気に戻った。
情けなく足がふらついて立てなかった。
バンビみたい、笑っちゃう。
いつも強がってるくせに大事な時に何もできない、ひとつも役に立たない。虚勢が剥げ落ちたら笑う膝をしゃんと支える気力すら絞りだせない体たらく。
病院に着くまでの記憶は所々抜け落ちている。白昼夢みたいに現実感が褪せている。
舎弟に付き添われて救急車に乗り込んだ。
親父はすぐ病院に搬送され担架に移さればたばたと慌ただしく手術室に担ぎ込まれた。
手術は無事済み一命はとりとめたけど安心はできない容態で、沢山の点滴や心電図、呼吸器に繋がれて昏睡している親父は、私の知らないよその男の人のようにも見えた。
ベッド横のパイプ椅子に腰掛けてまんじりともせず親父の寝顔を見つめて過ごす。
そういえば、親父の寝顔を見ることなんてなかった気がする。
「私が眠りにつくまでいつもそばにいてくれたもんね、親父」
小さい頃同じ布団で添い寝してもらった時も、私がうとうとまどろむまでそばを離れずいてくれた。
明日のスケジュールも詰まっていたのに、安心して眠りに就くまで頭をなでて見守ってくれていた。
どうして忘れてたんだろう、そんな大事なこと。
忘れられていられたんだろう。
神様。
もうお嫁にいけなくたっていい、一生独身でいい、だから親父を助けて。
もう一度ただいまを言わせて。おかえりを聞かせて。
親孝行するから。いい子になるから。お風呂も一緒に入ってあげるから。……ううん、さすがにそれは……でも考えてはあげるから。
洗濯物を一緒に洗うのも嫌がらない。エロ本を勝手に捨てない。門限を守る、お小遣いを増やせなんてわがまま言わない、ちゃんと言う事聞く、だから……
「ただいまなんて、おかえりを言ってくれる人がいなきゃただのでっかい独り言じゃないの」
ただいまとおかえりは対になってる。
どっちか片方だけなら暗闇で迷子になる。
そっと身を乗り出し掛布団の下に手をもぐりこませる。
冷たく強張った手を自分の手で包み、必死に擦って温める。
祈るように。縋るように。肌から失せきった熱と、目には見えない大事な何かを取り戻そうとする。
「お父さん……」
もう一度、ただいまを言わせて。
・・・・・・・
ひふみの過去SS。
他にすることもなくて、でも何かしてないと気が狂いそうで、親父の寝顔を見つめつつぼんやりとここ最近の出来事を思い出す。
中学に上がった頃から親父を無視するようになった。相変わらず口うるさく、それでいてデレデレと甘やかしてくる親父にそっけない態度をとった。邪険に突っぱねて、突き放して。うざい、あっちいってが口癖になった。
親父の後に風呂に入るのが嫌で、浴室でばったり行き会おうものなら金切り声で叫んで追い払って、思春期特有の潔癖さで洗濯物すら別カゴに選り分けた。親父がショックを受けてるのは知ってたけどどうでもよかった。
死ねと悪態を吐いたこと数知れず、男親とどう接したらいいかわからない気恥ずかしさから家で顔を合わせるのすら避けるようになって……
いい娘なんかじゃない。
なのに、守ってくれた。
今日だってそうだ。学校から帰って玄関のドアを開けて、親父の書斎の前を足早に素通りした。
わざとうるさく立てた足音に気付いた親父が「おかえり」を言ってくれても知らんぷりをした。
いつ頃からただいまを言わなくなったんだっけ。
いつ頃からシカトしてたんだっけ。
何度無視されたってこりず、学校から帰ってくる娘に馬鹿みたいに明るく陽気におかえりを言い続ける親父。何度シカトされてもへこたれず、馬鹿みたいに笑って、馬鹿みたいに……
「…………ばか」
馬鹿はどっちよ。
「ばっかじゃない、ほんとに」
ぽた、ぽた。
そろえた膝に涙が滴る。子供みたいにしゃくりあげ、手の甲で涙を拭い、心の中で自分を責める。
なんでまた「おかえり」を言ってもらえると思ってたの?
きょうも、あしたも、あさっても。ずっとずっとこのさきも家中に響き渡る「おかえり」がむかえてくれると思ってたの?きょうもあしたもあさっても、親父が当たり前にうちにいるって、私のことを笑ってむかえてくれると思っていられたの。
親父のただいまが聞こえない屋敷はがらんとして、鯉の跳ねる音が聴こえる位静かすぎて、きっともう今まで通りには暮らしていけない。
思い出す。
いじめられてべそかく私をひょいと抱き上げる逞しい手。
『どうした、また泣いてんのか。鯉さんが心配してるぜ』
肩車して庭を一周、池の端に戻ってくることにはすっかり笑顔になっていた。池のおもてに映ったそっくり同じ笑顔を見比べて、ああ、親子なんだなと子供心にくすぐったく思った。
『そうそう、ひーちゃんは笑った顔が一番かわいい。男なんざいちころだ』