枝ぶりの良い松や楓、桜や百日紅が生い茂る日本庭園。錦鯉が優雅に泳ぐ池の端に少年が蹲っている。
「背中が煤けてますぜ、坊ちゃん」
砂利を踏む音に小さな背中が強張る。
「外は冷えます。そろそろ中に入りやしょう」
実直さを秘めた野太い声で促すも無視されて、男ははっきりと聞こえるようにため息を吐く。
「頑固は親父さん譲りですねェ」
オールバックに纏めた黒髪、頬骨の高い精悍な顔立ち。
肩幅のしっかりした体格にはストイックな黒スーツがよく似合い、頬に走る刀傷が強面を引き立てる。
筋金の痩躯から受ける印象は、さながら主の手を傷付けるのを是とせず、自ら鞘におさまることを選んだ刃物。銘は【忠義】。
紅葉が化粧施す水面を、その筋の専門家ならば一匹数百万はすると鑑定をくだす錦鯉が群れなし泳ぐ様は壮観だ。
大昔に部屋住みの兄貴に聞いた話によれば、錦鯉の飼育は初代から連綿と受け継がれる道楽だそうで、今の組長も大枚はたいて買い集めた鯉たちをそれはそれは可愛がっている。
いかにも成金好み、酔狂と持て囃されても違ェあるめェと餌撒きながら呵々大笑していたが。
(鯉に注ぐ手間暇を、もうちょっと息子にも振り分けてくれればいいんですがねェ)
男の名は松崎隆平。
まだ三十路そこそこの若さにして次期若頭の最有力候補と見做される隠れた実力者で、実の親に勘当され、野良犬も同然だった彼を拾い、いちから育て上げた組長の信頼は一際篤い。
俗に極道の上下関係は親と子になぞえられるが、松崎と組長の関係は血の繋がりこそなくともまさしくそれに近い。
主と従であるより先に、互いの血に見立て盃を酌み交わした親子として固く結び付いているのだ。
しかし、組長には本当の息子がいた。
一粒種の息子はまだ小学生だが、母親に先立たれて以降ずっと松崎が面倒を見ている。
多忙で癇性な組長に代わり赤ん坊の頃から世話をしているのだ、どうしても情は湧く。彼が振り向かない理由も理解はできる。
少年の気持ちを慮り、三十路過ぎて渋く錆び始めた声音で探りを入れる。
「今度はどうしたんですかい。お友達と喧嘩?」
「おともだちなんかじゃねえ」
漸く返事があった。まだ声変わりも経てない、ぶすっと不機嫌な声。
本来なら子供特有の甲高い声が酷くやさぐれて掠れているのは、殴られてる間中鉄錆びた血の味と一緒に嗚咽を噛み潰していたせいか。
振り上げるタイミングすら封じられ、悔しげに裾を握り込んだ拳を一瞥、視線を下におろせば擦りむいた膝が目に入る。
「失礼しやす」
背広のポケットからハンカチをとりだし、慣れた手つきで膝小僧に巻きつける。
「応急処置ってことで、ひとまずこれで我慢してくだせえ」
あのね坊ちゃん。
「どんなに強い男だって、泣きたくなる時はあるんですぜ」
「……お前も?」
「ええ、あっしも、親父さんもね」
「嘘だ。あいつが泣いてるとこなんか想像つかねえ」
「さあどうでしょうね。夜中箪笥の抽斗から姐さんの写真をひっぱりだしてしんみりしてるとか……」
「本当か?」
「内緒ですぜ?」
冗談めかして口元に指を立てれば、張り詰め通しだった少年が幾分か肩の力を抜き、やんちゃっぽい笑顔を見せる。
つられて松崎も笑いながら、ふと真剣な顔になり、愛情と懸念を等分に乗せた眼差しで、戸惑いがちに開かれた目の奥をまっすぐ射貫く。
「坊ちゃんは強い。立派だ。めそめそ泣かねえのも偉い。でも殴られたら誰だって痛い。あっしだってそれはわかってます、身にしみてやす」
秀でた額にうっすら残る傷痕は、いつだったか身を挺し少年を庇い灰皿をぶつけられできたものだ。
分厚い掌でしっかりと肩を抱き、体ごと向き直らせる。
「だから……今度何かあれば、この松崎を頼ってくだせえ。あっしに華を持たせてくだせえ。大丈夫、見ての通りあっしは頑丈なんです。ちょっとやそっとどつかれたくらいでへこたれません」
風が吹く。落葉が舞う。少年は何も答えない。
己の掌にぺっと唾を吐き、困惑する松崎の額に伸ばして塗りつける。
「……あの……坊ちゃん……何をなさってるんで?」
「見りゃわかるだろ」
「いや、わかんねえから聞いてるんですが」
そこまで言って松崎は気付く。唾は民間療法における即効薬だ。
治りはしたが残ってしまった痕をひたむきに労わり、もう疼くことがないようまじないをかけ、満足げに身を引く。
「ぼーっとすんな。帰るぞ」
ああ、まったくウチの坊ときたら、本当に。
くすぐったくもむず痒く、ノロケにも似た感慨をしみじみ噛み締め、こみあげる滑稽味を神妙な表情で隠す。
「へいへい、仰せのままに」
「へいは一度だ」
「へい……っと」
苦笑がちに腰を上げた松崎の視線の先、何かを思い出した少年が池の端に駆け戻る。