月が逃げたあの夜……ひふみは意を決してとある部屋の前にいた。
実の父親にして、神無月組というヤクザの組長をしている神無月 文貴の書斎だった。
いきなりノックをせずに開ける娘に驚き、読んでいた本を取り落としながら文貴は突然の来訪者に顔を向けた。
「どうしたひーちゃん。別に今読んでたのは実はエロ本だとか、こっそりお前の成長の記録したDVDを配ってたりしてないぞ?」
「いつの間にそんなことしてたのよバカ親父ッ!……ほんとはこんなことを頼みたくないのだけど」
「………いってみな」
娘がやけに真剣な顔で、会うのも疎ましく感じているはずの彼女の真剣な頼みに文貴も応じた。
ぽつり、と降りだしの雨のようにゆっくりと、ひふみは経緯を話す。新しくできたサークルの後輩の一人と一緒のところを、夕方に襲われたことを。
「思い出した。ひーちゃんに手を出してきたクズ共のことだな。ん? あん時は確かひーちゃん一人だけだっただろ」
「いたのよ。……常闇月っていう子なんだけど」
ギクリ、と内心ビクついた──同じ苗字の愛人を密かに持っている故に──のをなんとか顔に出さず。
「けどすぐに松崎が来ただろ。手勢と一緒に」
「その前に……それに、あれをしたのも月なのよ」
「松崎もいってたな。本当にアレをお嬢がしたのか?ってな」
ひふみが習ってたのは空手だ。よって殴る蹴ることによる怪我だったのならなんら不自然はない。
しかし松崎──ひふみが慕っている組の幹部の一人が見たのはひと思いで関節技によってへし折られた腕だった。
明らかに試合用のではない、一瞬で相手の戦闘力を奪う、血生臭い業。
結局連中は病院に叩き込まれたわけであるが……。
「で、月って奴のことをどうしたいんだ?ひーちゃん」
「わからないけど。月のこと、本当に何も知らないから……手伝って」
「なるほどな。……わかった、ちょっと顔知ってる奴に調べさせるってことでいいか?」
★
それから数日の間。休み時間や放課後は無論、サークルの集いでも月を探した。しかし彼女は霞のように行方を眩ませている。
明らかに避けられているのだと、ひふみは予感した。
あの時、何故私は……人を平然と壊す月の、あの姿に恐れを抱いてしまったのだろう。
後悔が募りに募っていく。それが重みとなって彼女にのしかかってくる。
家に帰ってはぼふぼふと枕に八つ当たりをして、それでもすぐに月へのもやもやした気持ちが湧き上がってくる。
自分だって、ヤクザの娘だっていわれた身だったのに。
沈み込む彼女に、漸く転機が訪れる。調べものが終わったのだ。
松崎から結果が出たという知らせを受けて即座に書斎へと向かった。
「バカ親父、出たって本当?」
「主語が抜けてるぞひーちゃん。……気持ちは分からんこともないが、あんまり見せれるもんじゃないぞ?」
「どういうことよ」
「……ま、それでも引かねーわな」
文貴は調べさせただろう内容が記された書類を片手にひふみを見る。
だが、正直文貴はこの内容をひふみに教えたくはなかった。自分でもこれは、見たくなかったと思っている。
調べた本人からして胸糞悪い、と聞いた。実際はもっと酷いものだっただろうと文貴は見てる。
その彼の手の記された書類をひったくるように取ったひふみはその文章に目を通し……掴んだ手が震えた。
「なによ、これ……」
本名不明、コードネーム【ウルフズベイン】。
幼少の頃に誘拐され、組織によって人殺しになるべく教育を受けさせられる。
その後イギリスやアメリカ、中国……様々な場所で暗殺を実行。
彼女を抱えていた組織が解散したことを折に日本にやってくる。
現在は某所にて戸籍を習得し、常闇月と名乗っている……。
だからなのか。
どうしてあれほど自分から交わろうとしないのは。
サークルでの発言に、それを予感させるものが混じっていたのも。
出された食べ物に手を出さないのは、毒殺を恐れての行為故か。
あの時、月は何を思って戦ったのだろう。
きっと、……人を傷つけるのが楽しいからという理由じゃないはずだ。
あの場にいたひふみを守る為に……捨てたはずの過去を持ち出したのだ。
不意に、あの時の月の目を思い出す。
冷たい刃のような目を。
自分の首に刃物を押し付けられているかのような死の錯覚に、恐れてしまった自分が情けなかった。
「謝らなきゃ……!」
書類には、彼女が今住んでいる場所が記されていた。
旧市街の一角にある店【Hollow Ataraxia】である。