ひとつ、選択をしてみよう｜リアクション

ひとつ、選択をしてみよう

◯ご苦労様のただひと言で

　見慣れた教室の、座り慣れた椅子に座り、使い慣れた机の上に、桃川圭花は一枚の紙を広げる。
　その紙を見つめていると圭花の脳裏にはあの日のことがありありと蘇る。
　そう。あの日、圭花は宣言した。
　「私は役者になる」と。
　それからすぐに転科制度のことを思い出した。そして寝子高に芸術科演劇専攻があるということも。
（渡りに船ってやつで、迷わず転科を選ぶべきなんだろうけど……でも）
　圭花の申請書はいまだに白紙のままだ。
（そうするってことはつまり、クラスが変わって、二学期には私はここへ来ないってこと）
　今の、１－２のクラスには、圭花の友達が何人かいる。
　朝、教室へ入れば何回も「おはよう」って言う。言い返してもらえる。
（私が来なくなったら誰かが寂しがってくれる……なんてのはとんだ自惚れかもしれない）
　自嘲めいた笑みがこぼれる。
（けど、でも、気付いてはくれる）
……と圭花は思う。
（いや気付く。きっと）
　そう思うだけで、圭花の胸の中に小さな温もりが広がる。それと小さな小さな穴にも気がつく。
「人生って、ほんと複雑ね」
　圭花は胸の中に生まれたモノを息とともに吐き出した。吐き出すと今度は新たな疑問が生まれてくる。
「……大人っていうのは、こうやって大事なものを２つや３つ並べて、たくさんの物を捨ててるのかな」
　そんな大人に圭花がなりたいのかどうか。そんなこと考えなくてもわかっている。
（あの人はどうだろう）
　圭花の頭に浮かぶひとりの、たぶん女性。富士山権蔵。
（演劇科の先生。私を認めてくれた、大人。こんな悩みの原因を作った人）
　あの人は、下手な賛辞を並べもせず、ただひと言『ご苦労様』と労ってくれた。同等として扱ってくれた。そんなあの人も他の大人と同じように多くのものを捨てているのだろうか。
　頭の中で疑問を並べてみてから、圭花は静かに首を振る。
（ちょっと考えてみると……あの人が、大事なものをただで捨てるはずないわ）
　女になることを選び、演劇を選び、学校の教師という職業を選び。彼女は多くのものを、勝ち取り、納得している。
「絶対そう。あの人なら、どっちも取ろうとする」
　そうと気がついたとき、知らず知らずのうちに笑みがこぼれていた。
「決めたわ」
　気がついてしまった道は今まで考えていた道よりもずっと難しく、面倒くさく、努力が必要な道なのに。この新しい難題を、圭花は自覚のない、もっと深い部分で喜んでいる。体の奥からざわざわ、ざわざわとナニカがこみ上げてくる。
　そして決断した。
「１年の間は、普通科に所属しながら演技の勉強をする」
　努力？　いいわ、してやろうじゃない。
　涼し気な表情の奥で燃える激情。いつもは奥に仕舞いこんでいる感情がわずかに瞳に浮かぶ。
「そうと決まればもうこんなものいらないわ」
　圭花はなんの迷いもなく手の中の紙を丸め、ポイとゴミ箱に投げる。
「nice shot!」
　あの時と同じように流暢な英語を口ずさみ、圭花は教室を後にした。

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