色なき風に思い重ねて｜リアクション

色なき風に思い重ねて

「ううーむ」
　訳も分からず首を捻る。いつものように読みかけの文庫本へ手を伸ばしかけ、逡巡すると引っ込めた。活字中毒者こと倉前七瀬にあるまじき事態であった。
　思えば休日の今日は今朝からどうにも気分が良くない。体調が悪いという意味ではなくあくまで精神的なものだ。どうにも憂鬱な心持ち、アンニュイなのである。とはいえ無理もない。秋とは得てしてそうした季節となりがちであろう。徐々に気温が下がり肌寒くなってゆくにつれ心の温度も下がってゆくのだ。心が鈍くなると手指の動きも鈍くなるし足が重くなって出不精ともなる。
「はぁ～」
　溜息をつく。これで何度目だろうか。数えるのも億劫な程に吐息を漏らす。どこぞの学者は溜息の作用などといって肯定的に受け止めはぁふぅはぁと日々やっているそうだがどうにも、七瀬の幸福な思いまでもが吐息と共に逃げ出しているように思えてならない。
「ふぅ～。これはイカンですね」
　気怠いが一念発起、頬を両手で張るとその勢いで立ち上がる。気持ちが萎えない内に薄手のコートを羽織り外へと飛び出した。
「よしっ」
　秋を憂うより秋を楽しめ。そんな精神のもと七瀬は歩き出した。

　そうして飛び出してみれば世界は一変した。どこか気後れする心を叱咤しつつ歩むとそこかしこに紅葉した樹木が見られる。赤、黄、赤、何と目に鮮やかなことだろう。
「おお……綺麗ですねぇ」
　特に目的は定めぬこととした。秋めく街路樹を認めては駆け寄る。商店街の店々がこぞってアピールする秋メニューに気になるものを見つけては吸い寄せられてゆく。実に美味そうな栗饅頭を見かけて買ってみた。頬張ると途端、栗の甘さと香りが鼻腔を通り抜けてゆく。思わず頬が緩んだ。
「うむぅ、これは美味しい！」
「兄ちゃんいい顔して食べるじゃないか。嬉しいねぇ。こっちの栗最中も味見してみないかい？」
「あ、いいんですか。それじゃ一口……」
「そういうことならお兄さん、ウチのスイートポテトも試食していってよ。ほくほくだよ！」
「あたしの自慢の芋ようかんも食べていっとくれ」
「俺の作るアップルパイが最高よ！　味見してくんな！」
「いやいや私のモンブランが最強だってば！」
「えーと……あ、ありがとうございます」
　試食セットのようになった一抱えにいささか苦労をしつつも道を歩くと実に多彩な発見が目についた。知らなかった路地、知らなかった店。あちらには新しくアパレルショップができるようだ。向こうにはラーメン屋がオープンしたらしい、七瀬好みの味だろうか。通りを挟んだあそこにはいつのまにやらコンビニが増えている。隣はドーナツ屋であり、最近流行りの生ドーナツが売りなのだそうだ。そうした新たな発見は、朝からどこか浮かない心持ちだった七瀬を少しばかり弾ませてくれる。どうにも引き剥がしがたかった陰鬱がさらりと霧散していった。
「ふふふ。やっぱり、外に出て正解でしたね」
　軽くなった足取りで、これまた新発見のカフェになど入店してみる。
「……あれ？　七瀬じゃないかぁ」
「ウォルターさん！　奇遇ですねぇ」
　幸福といえば確かにそうだ。彼の存在なくば語れまい。
　ウォルター・Bもまた今日の憂いに気を沈み込ませていたのだろうか。七瀬の顔を見るなりぱあと明るく輝いた。

　珈琲と他愛もない雑談を楽しんでから、二人で道を歩んだ。ウォルターもこのあたりには良く来るというから、先ほどに見つけた店など案内してやると彼はほくほく顔で喜んだ。
「あそこのドーナツ屋は気になるねぇ。七瀬、今お腹空いてるかい」
「そうですね。ちょっと小腹が空いてますかねー」
「なら決まりだ」
　先程譲られた大量の試食セットに生ドーナツを加え公園にて味わう。広げてみると何やらパーティーのようになってしまった。見上げれば紅葉に染まる樹々の向こうへ青空が広がり、風情ある試食会となった。
「ウォルターさんもですか」
「そうそう、そうなんだよねぇ。今日はどうも朝から、落ち着かないというか。沈んじゃうというか。こういう日ってたまにあるよね」
「うん、分かります。本を読もうと思ったんですけど、なーんか読む気がしなくて。頭では読もうと思っても気持ちがついてこないんですよね」
「分かる分かる」
　秋のアンニュイは誰しも陥りがちなものだが、こうして憂いを分かち合う者がいたならば話は別だ。スイートポテトにモンブラン、ドーナツを頬張りながらに笑い合うたびに胸から最後に残った憂鬱の欠片が剥がれ落ち、風に乗ってどこかへ飛んでゆく。後に残ったのは二人の軽やかな笑い声のみだった。

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