激情｜リアクション

激情

　嵐のような予感があった。いや荒天が訪れると言いたいわけではない。あたかも嵐のごとき感情の奔流が全てをさらい、揺さぶり尽くす。衝撃に頭は真っ白、眼前は揺らぎぐるりと巡り出す。思わず地に伏してしまいそうだ。とても立っていられない。暴風は巡り壁となって立ちはだかる。何とか己を奮い立たせ風のカーテンを払いのけよろめきながらに前へ。前へ。雲が、晴れた……瞬間差し込む強い光条に目を細む。ああそこに佇むのは天使か女神か。いずれにせよ途方もなく美しい何かがそこに、ああ、目の前に。
　例えばそういった言葉に比喩される激情が訪れようという予感が、この日の寝子島には満ち満ちていた。人々は浮足立ちそわそわとして落ち着かず、何だかあてどなく蒼天を仰ぎ見ずにはいられない、どうにもそんな日であるようなのだ。

　綾辻綾花も祈りに似た心境を胸に空を見上げた。青ざめて澄み渡る。雲一つなく晴れていた。不安と期待が入り交じる。伝えたら……どんな顔を浮かべるだろう。戸惑うだろうか。歓喜の色を示すのだろうか。
　結婚二年目。まだまだ新婚気分だ。いつまでも初々しく色褪せないからこそ時として感情の振れ幅は大きく、綾花を翻弄する。若く繊細な新妻を年上の夫は広い度量と経験豊富でサポートしてくれるが、清濁併せ呑む大人の男とて踏み込めない領域はあるのだ。しかし、それでも不安に心揺れる時はそっと寄り添い静かに支えてくれるから、相反する感情はいつしか混交し多様な色を合わせ持ち、綾花をそっと包み込んだ。じんわりと染みるような幸福だった。
　だから綾花も勇気を持てる。
「……珪さん」
「うん」
「大切なお話があります」
　帰宅した早川珪を出迎える綾花の表情はきっと固く不自然であったことだろうと思う。頬がこわばり目も据わり、何だか不健康に見えてしまったかもしれない。いらぬ心配を抱かせてしまっただろう……その証拠にか、卓へ向かい合って座るなり彼はかぶりを振った。
「あの。実は」
「いや、いいんだ。分かっている。綾花さんは悪くない」
「え？」
「全ては僕の不徳の致すところだ。ただ、正直言うとあまり自覚は無くて……僕の知らないところで、綾花さんに不快な思いをさせていたんだろう。本当にすまなかった」
「え、え？　珪さん、何を」
「ただ可能なら、理由を教えてほしい。僕の何がいけなかったのか。どうして離婚を決意して」
「りりりりり、離婚！？　ち、違います！　違いますから、私、絶対珪さんと離れたりなんてしませんから！」
「あれ。違うのかい？　張りつめた顔をしているから、てっきり……」
　ほうと胸を撫で下ろした珪の胸をぽかりと叩いた。そんなつもりはまるでないというのに。普段はあれほどに頼りになるというのにこと綾花についてとなると、時に先走る傾向のある夫である。
　あらためて向き直り、いささか不安に揺れるその目を覗き込むと綾花は意を決し、深呼吸を二度し、もう一度深く息を吸い込んでから一息に言葉を迸らせた。
「……赤ちゃんができたんです」
「へっ」
　こんなにも間の抜けた彼の声をかつて聞いたことがあったあろうか。クールな佇まいに似つかわしくない表情が見たことがあっただろうか。
「妊娠したんです。私と、珪さんの子です」
　しばしの沈黙。言葉の字面と内包される意味が彼の中で一つになった瞬間、綾花は抱きすくめられた。背骨が折れんばかりの力が籠もり綾花はたまらず彼の腕をタップした。
　まさしく奔流だ。感情の嵐だ。珪を満たしたそれが綾花の内へも伝わると自然、目元からは雫がこぼれた。喜びは共有され循環し……涙ぐむ珪の顔など目にしたのは初めてであったかもしれない。生涯この光景を、綾花は忘れないだろう。

「わ。珪さん、これって……」
「たまたま目について、買ってみたんだ」
　虹色の波が一際に立ち上がりようやくにして去った後、珪が取り出した物を見て綾花の笑みは満面を通り越して蕩けるようだった。二人とも、目元は赤く腫れていた。
「子猫の絵本ですね。かわいい！」

　紙袋にはいくつもの、猫を題材とした絵本が詰まっていた。無作為に一冊を取り出してみると、『まいごのミミィ』と表紙にはある。マンション住まいの白い子猫がうっかり窓から落ちてしまい、遥かなる天上の家へ戻るために野良猫、犬、鳥たちの力を借りながら悪戦苦闘するといった筋書きであるようだ。挿絵は緻密で美しく、そして愛らしい。
「子供に読ませてあげたいです」
「うん。その日は遠くないんだね」
　絵本をめくれば猫が踊る。さらにめくれば笑顔が満ちる。今は二つ……やがてそれも、三つになるだろう。

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