屋台島紀行｜リアクション

屋台島紀行

【羽を伸ばすのも大切です】

　ここしばらくの、社会に出てからの労働の日々――新社会人のスタートを切った森篠琳子は、若干、むしろかなりの疲労度を背負って、もう完全に疲れ切っていた。
　勤め始めた寝子島信用金庫。しかし、リアルに飛び交う『現金合いません！』『伝票の照合が終わりません！』の余波は、入社したてであろうが関係ないと言わんばかりに、容赦無く琳子を呑み込んで連日に渡る地獄の残業に巻き込んだ。
　金融機関の厳しさとして、全てに対して帳尻が合うことが叩き付けられる――それを、身を以て叩き込まれた琳子はめくるめく残業の日々から逃れた今日、油断をするとよろけるのではというボロボロ状態で、なんとか退勤まで持ち込んだのである。
「つ、疲れた……」
　気持ちふらふらしていない方が凄い状態で、琳子は宵の口まで足を踏み入れた夜の帰り道を歩いていく。そして、疲れを少しでも吐き出そうと深く目を閉じ深呼吸し、ゆっくりと目を開けた、瞬間。
「え――？」
　世界が変わった。
　空気が、僅かに潮の香りを含んで重く。
　紺色に染まりつつある夜空には、顔を上げればあちこちに色とりどりのアジアンランタンがぶら下げられて、空間を鮮やかかつ鮮やかに染め上げている。
　そして、正面に目を向ければ、目の前には道に沿って無数の屋台が広がっていた。一気にどこかに迷い込んでしまったような感覚――
「……」
　琳子が考え込むことしばし。しかし以前も猫の主人がラーメン屋さんをやっていた屋台に遭遇したばかり。それを考えれば、このように多少の不思議な現象が起きるのも、心臓が止まるほど驚くようなものではないだろう。むしろ、
「いらっしゃーい！　美味しい魚と貝たくさん入ってるよー！」
　一見エスニックじみた異国のように見えたとしても、響く言葉は日本語だと分かれば、そこにあるのは安心感の方が強いというもの。
　退勤時の空腹に響く塩と魚の香ばしく焼けていく匂い。これにどうして逆らえよう。
「うん、たまには息抜きもいいかな」
　日々、数字ばかり追い掛けていた目には、今穏やかな明かりも少し眩しいくらいで――また、それがとても心に優しく僅かな好奇心を添えて楽しむ心を沸き立たせてくれる。
　そうと決まれば、重たかった足は少し軽やかに。琳子は賑やかな屋台の並びの中に足を踏み入れた――

　屋台街に足を踏み入れれば、琳子はその華やかさを鋭めながらも艶やかな黒の瞳に映して一気に煌めき輝かせた。
「そこの綺麗なお姉さん！　美味しい焼き身の魚があるよっ。頭から尻尾に羽まで全部の食感が味わえる魚揃えてるよー！」
「羽……？」
　屋台の主人に声を掛けられ、琳子は不思議に思いながらも良い香りの漂うひとつの屋台へと足を運ぶ。そこで見たものは、それぞれ爽やかなスカイブルーと、可愛らしいパッションピンク、そして少しくすんだシルバーの魚がそれぞれ串に刺されて、七輪で焼かれているところだった。
「ああ、綺麗な青が『さばサバ』で、ピンクが『ブリっこ』、銀色のが『たらタラ』だよ！　羽と色が特徴的でね。それぞれ羽の形も違うし、食べ比べたら美味しいよっ。三尾まとめて600円！　お姉さん美人だから、お茶ペットボトルサービスしちゃうっ」
「あ……じゃあ、それを――」
「まいどー！！」
　一瞬、むしろ普通の銀色の魚が極めて普通に見える世界。派手派手しすぎるカラーリングと透き通った色に染まった羽に驚きはしたが、空腹時に残さず手間なく食べられるというのは非常にお得――早速、傍らのベンチに腰掛けて、お茶を傍らに羽から一口。
　ぱりっ！
「思った以上に、香ばしくて美味しいかも。身の方とかは――わ、ほくほくしてる。少し色の主張が激しいけど、美味しい……っ」

　そうして、しばらくすれば、味わっている間に三尾完食。
　連日の残業の疲れも不思議と抜けて、後はちょっと欲を出してお土産か何かが買えれば、と。琳子はいつしかうきうきしながら屋台の並びへと再度元気になった足を向けていったのだった。

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