続・『ねこのしま』にて｜リアクション

続・『ねこのしま』にて

　――おいしい。
　万条幸次は息をついた。ふわふわとした、わた雲みたいな吐息だった。
　訪れるのが久々だったせいか、まだ体のどこかに緊張が残っていたようだ。けれど背の若竹のような堅さも、じんわりしたココアの熱が飴のようにやわらげてくれている。甘い香りにも心が軽くなる。
　幸次がくつろいだことを見てとったか、「にゃ」と声をあげて一匹の猫が膝に乗ってきた。以前来店したとき仲良くなったキジトラだ。幸次の膝の上をくるりと回り、しっくりくる場所を確かめるように前足をふみふみする。やがて満足したのか、これでよし、とばかりにぺたんと座った。
「やあ、久しぶり」
　サイドテーブルにココアを置いて、幸次はキジトラの喉をくすぐった。イトという名前を覚えている。
　イトは『うん、久しぶり』とでも言いたげな顔を見せた。
　店内にはゆるやかなピアノの旋律が流れ、壁際の棚では数匹の猫たちが丸くなっていた。白い長毛の猫が背伸びしながらあくびをし、三毛猫はキャットタワーの上で尻尾をゆらゆら揺らしている。
　低い鳴き声を耳にして振り向くと、奥から新顔らしき黒猫が歩いてきた。すらりとした体つきで、金色の瞳が興味深げに幸次を見つめている。
「お、新入りかな？」
　幸次が手を伸ばすと黒猫は慎重に鼻を近づけ、一瞬匂いを確かめる。けれども、ぷいと向きを変えて行ってしまった。
「……そっけないなあ」
　そう言いながらも幸次の顔はほころんでいた。猫カフェの空気は、相変わらず気ままで、心地いい。
「あの子、最近入ったんですよね？」
　百瀬に呼びかけると、「そうなのよー」と返ってきた。
「最初の何日かはすごく警戒していたんだけどね、いつのまにか落ち着いたみたいで」
「それはよかった」
　しばらく百瀬から黒猫の情報を聞く。名前は『小倉（こくら）』、生まれは島外だ。段ボールに入れて捨てられていたところを保護されたという。
　幸次は壁を見上げて写真を確認した。現在の所属猫を示すポートレイトだ。一匹ずつ写してある。それぞれの写真の下には名前と性別、性格や好きな遊びなど、簡単なプロフィールが添えてあった。もう何度も貼って剥がしてを繰り返しているようで台紙はボロボロだ。写真のない空欄には、セロハンテープの跡が残っているだけだった。
　譲渡が決まったばかりの猫の蘭には『ありがとうございました。○月○日に卒業です』というメッセージが書き加えられている。
　前からいたうちの二匹、この前の譲渡会で新しい家が決まったのか。
　幸次は思い出をたぐる。人なつっこいあの子はもういない。目つきの悪かったあの子も、どうやらまもなくのようだ。
　嬉しくもあり寂しくもあり……だなあ。
　感傷が胸の奥をくすぐるような気がした。それを打ち消すように、幸次は膝の上のイトの背を撫でる。
「よかったな」
　イトはふにゃあと小さく鳴いた。やわらかな毛並みが、幸次の指の間をすり抜けていく。
　この先の彼らの人生ならぬ猫生に、幸多かれと願わずにはいられない。
　しばらく幸次は、膝の上のイトを撫でつつゆったりとした時間に身をゆだねた。小さな体が呼吸にあわせて、ふくらみしぼむ感覚が愛おしい。
　……？
　ふと、空気の流れが変わったような気がした。まもなく訪れる気配に、幸次は背筋を伸ばす。
　膝の上のイトも何かを察したのか、ぴんと耳を立て、しなやかに膝からすべり降りた。
「いらっしゃい」
　予想通りだ。ドアを開けてあらわれたのは鈴木冱子だった。