なんだか黴(かび)臭いな――。
ふと、
万条 幸次の頭に浮かんだ思いだ。
チェスターコートだと暑いくらい、そんないい陽気なのに、スプリングシーズンには似つかわしくない香が鼻先をかすめた気がした。大きな古めかしい図書館の、書庫の最奥部を歩いているような錯覚をおぼえる。
幸次は足を止めた。地下へと降りていく階段の途中、そんなシチュエーションだったせいだろうか。
気のせい、かな。
首を振って階段を最後まで降りる。行き着いた先の見慣れたドア、入口の呼び鈴に指をのせた。
「いらっしゃいませ。あら、万条君」
出てきたのは顔なじみの店員、
百瀬(ももせ)だ。ふくよかな体型の女性で、幸次の母親くらいの年齢である。明るい性格でいつもよく笑う。百瀬の笑顔を前にしたおかげで、幸次のなかにうっすら残っていた不吉な気配はすっかり消えていた。
「ご無沙汰してます」
「そんなかしこまらなくたって。さあさあ、上がってちょうだいな」
幸次が店――保護猫カフェ『ねこのしま』を訪れるのは数週間ぶりだ。卒業式や大学の入学手続きなどで忙しく、なかなか訪れる機会がなかった。
玄関で靴を脱ぎ、猫エスケイプ防止用の二重扉をぬけ、すっかりなじみになった店内に通される。
「万条さん」
レジのところで、はっとするほど美しい女性に声をかけられた。
「上着と荷物、お預かりします」
言われても幸次はぽかんとしてしまう。
なんというか、ネモフィラの花を想起させるような可憐な貌(かおだち)だ。誰だろう。でも知っているような。
一秒近い間隔をおいて、ようやく幸次は彼女が
成小 瑛美(なるこ・えいみ)だと気づいた。かつてはもっとずっともっさりとしていて、良い意味でも悪い意味でも地味だったものだが。
「どうしました?」
という言葉づかいも気のせいか、磨かれて流麗になったように感じた。
「あ……いや、なんでもないです。成子さんも、お久しぶりです」
「ゆっくりしていってくださいね」
やはりキャラ変している。接客慣れしたということか。
髪の量が減ったせいかな、それともメイクの雰囲気が変わったのか……などと、いささか失礼ながら考えつつ、幸次はフロアに通された。今日も客は自分だけらしい。フローリングの空間にカーペット敷きの部屋、いずれにもソファやキャットタワーが用意されている。もちろんそのあちこちに、猫がおり思い思いにすごしているのだ。三毛猫、白猫、キジトラ、シャム猫――。
やっぱりここは落ち着くな。
ふっと息をついて幸次はソファに身を沈める。ソファのはじにいた顔なじみの猫が、「ひさしぶり」とでも言いたげに一声鳴いた。
「ココアをお願いします」
ホットで、と百瀬に言ってから幸次はつづけた。
「ところで店長さんは?」
鈴木 冱子の姿を探す。奥のオフィスにもいないようだ。去りかけたのを戻ってきて百瀬が言う。
「出かけてるけど、もうじき戻ってくるんじゃないかな」
「それは良かった。実は鈴木さんに話したいことがあって」
「深刻な話?」
「いえあの――」わりと遠慮なく訊いてくるではないか。まあ、楽ではあった。幸次は言う。
「アルバイト、募集してないかなって思って」
たくさんの猫をみていて楽しいことばかりじゃない、つらいことも多いと鈴木さんは教えてくれた。
それでも俺は、猫とこのお店の役に立てるならアルバイトしてみたいと思ったんだ。
はっきり口にはしないけれど、これが幸次の想いだ。
幸次の言を聞くなり、
「願ってもない話だよ」
ちょっと意外なほど百瀬は目を輝かせたのである。声のトーンに興味を持ったか、キジトラ猫が顔を起してこっちを見ている。
「私、もうじき辞めないといけなくて。いーえ、ここの仕事は大好きなんよ。でも、ちかぢか長野に帰郷しなきゃならなくなって」
「何かあったんですか」
「母の介護をね。認知症がはじまっちゃって……ま、そろそろとは思ってたけどね。ダンナは仕事あるから寝子島に残るけど、私は長野に引っ越すわ。だから別居。ウン十年ぶりに独身に戻ったみたい」
あっけらかんと、むしろ笑い話のように百瀬は話すわけだが、容易ならぬ事態なのは想像にかたくない。だから、
「それは本当に大変ですね……」
という幸次の言葉は、単なる相づちを越えた深い感慨をおびていた。
だからと百瀬は言うのである。
「誰か後任を探さなきゃ、って勝手ながら思ってたの。万条君が来てくれるならこれ以上の人材はないわ」
「そんな、買いかぶりすぎですよ」
しきりと恐縮するものの、幸次にとっても願ったり叶ったりの話なのはまちがいないだろう。事情が事情ゆえ素直には喜べないが、いいタイミングだったことだけはたしかだ。
今日ここに来た用件のうち、ひとつは期待が持てそうだ!
幸次は思った。
このときは。
―*―*―*―*―
冱子は歩いている。店への道を。
歩いている。散りゆく桜が、最後まで誇り高いように。
冱子はいつも姿勢がいい。
よくそう言われる。自分ではあまり意識したことはないが。
母親によれば、自分が厳しく躾(しつけ)たからってことになるのだろうけど――。
全然、ちがう。
私が背筋を伸ばして胸を張るのは、そうしないとくじけてしまいそうだから。
運命に。
いままた、冱子は負けつつある自分を意識している。
NPO法人『ねこのしま』は経営危機による解散の瀬戸際にあった。
じき、猫カフェのほうも閉じざるをえないだろう。
リクエストありがとうございました! 桂木京介です。
長らくお待たせしてしまいした。万条 幸次様へのプライベートシナリオをお届けします!
シナリオ概要
数週間ぶりに保護猫カフェ『ねこのしま』を訪れた幸次様は、もうじき店に現れる鈴木 冱子に「ここでバイトしたい」と申し出ることになるでしょう。
ですが冱子から、店を閉めることになりそうだと告げられます。
しかし本作の主題は『ねこのしま』の存続ではありません。バイトの件はもちろん、幸次様のこのお話の続きを見ることこそがメインですので、そのあたりにからめたアクションをお願いしたいと思います。(話のきっかけとして用意しただけなので、存続の話にはまったく関わらなくても大丈夫です。)
ふれてもらいたい過去のシナリオがありましたら、ページ数を含めてご指示をお願いします。
『ねこのしま』の現状について
保護猫カフェ『ねこのしま』の閉店とNPO法人『ねこのしま』解散は決まっているわけではありません。
私はいつも、話の結末を考えずに書きはじめます。だからもちろんリニューアル(ご覧の通り閑古鳥の鳴く店なのでイメージアップするとか)や移転(地下という立地が良くない)による継続もありえると思っています。
とはいえここなどいくつかのシナリオで触れているように『ねこのしま』の経営状態は本当に危機的なので、実際に終わるという展開もあるでしょう。
このシナリオではどっちの結論も出さない、という締めくくりも可能です。
NPCについて
●鈴木 冱子
NPO法人『ねこのしま』の代表であり保護猫カフェの店長でもあります。経営に行き詰まっていますが、店員たちには弱音を吐いていません。(ですが、しばしば給料の遅配が発生しているのですでにバレバレです)
凜然として強い人ですが、実は経営センスに致命的な欠陥があります。
展開によっては、幸次様に本当のことを明かすかもしれません。
●成小 瑛美
アルバイト店員。木天蓼大学生ですが両親が失業、学費が不足しており休学中です。学費を貯めるべく『ねこのしま』以外にもキャバクラやメイド喫茶のアルバイトを掛け持ちしています。
瑛美にとっては『ねこのしま』が最優先なので、限りなくボランティアに近い業務負担もしています。
●百瀬
名前が出るのは今回が初、『ねこのしま』の店員です。ちょうどシフトが終わったところなので、冱子と入れ替わりで立ち去ると思います。経営状態が悪いことには気づいていますが、まさかここまで崖っぷちとは思っていません。
●根積 宏一郎
私立探偵。『ねこのしま』ファンで足繁く通っています。雰囲気が冱子の行方不明の父親に似ているようです。
今回はまだ未登場ですし展開によっては未登場のままです。必要とあればアクションで呼び出してください。
その他、基本的にNPC登場には制限がありませんので「たまたま来店した」など、簡単な理由で登場させることができます。
それでは、次はリアクションで会いましょう。桂木京介でした!