多分、何気ない一日｜リアクション

多分、何気ない一日

　思い出の場所である。少なくとも稲積柚春にとってはそうだ。偶発的事故とはいえキスはキス、そう彼との初キスの現場となった場所である。

　ん？　あの時が初めて唇を合わせたのだっただろうか、あれ？　パッキーゲームの時が二回目？　それとも別の……記憶の渋滞でいまひとつ思い出せないが、まあしかし良き思い出の数々を重ねてきたということだ。ウォルター・Bとの良き記憶がいくつも柚春の内へと山積されてゆくのだ。それはとても幸せなことではないか。
　などと思いながらにウォルターを見やれば、彼は鼻の頭を所在なくかいていた。
「あー。なんか、思い出しちゃうねぇ」
「う、うん。思い出しちゃうよね、あの時の……」
「動物。何だったんだろうねぇ。痛っ、どうしたの柚春？　痛い」
　ぺちぺちと彼の肩をパンチした。どうやら違うことを考えていたらしい。がすぐに柚春は、彼の耳のあたりが少々赤くなっていることに気づく。ははーん照れ隠しだな、覚えてるんだなかわいいやつめと思えば柚春の気持ちも晴れやかとなった。
「動物ねー。あれ、何だったんだろうね」
「今となっては謎だねぇ」
　一体何であったのかは判然としないが、あれが飛び出してきたことがきっかけで彼にかばわれるまま地に転がり、偶発的キスにつながったのだからいわばキューピッド的な存在と考えて差し支えあるまい。柚春にとって、あるいはウォルターにとっても幸運の運び手であったのだ。
　そんな懐かしくも温かい彼との一幕から、ずいぶんと時が経過している。ウォルターとの関係もあの頃よりずいぶんとこなれたが、それでも時おり照れて赤面する程度の新鮮な情愛が湧くし、今では結婚して娘もいるというのに彼と共有するあらゆる感情はいつまでも色褪せることがない。
「さ、ピクニックだよ！」
　芝生にレジャーシートを敷きランチボックスを広げると、やぁこれは美味そうだとウォルターの瞳が輝いた。
「それにしても、二人きりってのも久しぶりだねぇ」
「そうだね。メアリさんはもっと香凛を預けてもいいですよ、って言ってくれるけど」
「うん。彼女の面倒見がいいのは身に染みてる」
「あはは、だから安心できるよね。でもやっぱり、できるだけ一緒にいてあげたいから」
　子育ての困難はそこそこに、幸福ばかりを享受していられるのはブラックウッド邸の有能なメイド、メアリ・エヴァンズの存在あってこそだ。彼女が夫婦の負担を大いに軽減してくれるおかげで、時にこうして二人でピクニックを楽しむこともできる。ひとえに感謝である。
　と、サンドイッチやジャケット・ポテトにサンデーロースト、フィッシュパイなどウォルターの故郷イギリスの味も添えた特製弁当を広げたところで、
「！　今、あそこの茂みが揺れたような……？」
　数年前のあの日に見た、我らがキューピッドだろうか。あるいは別の何かだろうか。ウォルターが柚春をかばうように肩を抱く。
「……風かな？　それとも……」
「あっ！」
　一際に大きく茂みが揺れ、ウォルターが背に柚春を押したところで姿を現したのは、白くてふわふわとした、長い身体の生き物だった。二人は毒気を抜かれて思わず顔を見合わせた。
「これは……オコジョ、かな？　どうしてこんなところに」
「か、かわいいいいい！！」
　オコジョは愛らしい見た目に反して獰猛であるようだが、少なくともこの一匹は穏やかでつぶらな瞳で柚春とウォルターを交互に見やり、首を傾げて見せた。オコジョは換毛によって色が変わるのも特徴の一つであり、主に冬の間に白い毛となるはずだが、今は春先だ。博識な教師ウォルターなどはそこに首をひねったが、柚春にはこの愛嬌だけで十分だ。
　小走りに柚春の膝の上へ駆け上ると白いオコジョは幾度かくるくると回り、柚春を一心に見上げた。時おりランチボックスの中を覗く。食べてもいい？　と尋ねるかのようだ。
「ど、どうしようワット！　オコジョって何食べるの？」
「えーと」
　調べてみると基本的に肉食性であり、時に木の実なども食べることがあるようだ。なるべく味を落とした豚肉を恐る恐るに差し出してみると、少し警戒しながらも食べてくれた。
「うわぁ……！」
　瞳を輝かせる柚春を眺め、ウォルターも顔をほころばせる。
「あ、そっかぁ。過去の乱獲によって数を減らしたオコジョは天然記念物として扱われていて、飼育はもちろん動物園でも見ることはできない……だってさ」
「じゃあ、こうやって触れ合えるのはラッキーなことなんだね」
　夫婦にとって、此度もまた幸せな思い出を重ねることとなったようだ。その幸福に浸るように、腕を絡ませぴたりと寄り添った二人を、白いオコジョはきょとんとして見上げていた。

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