桜のつぼみは、あとどれくらいで｜リアクション

桜のつぼみは、あとどれくらいで

　そう言って珪が誘ったのは――まさに、大人の空間だった。
　ボートハウスだと思っていた建物のシャッターを潜り、扉の前にあるパネルで暗証番号を入力し。
　珪が言う『悪いこと』がなんなのかと緊張する綾花の眼前に広がったのは、こぢんまりしたバーだ。
「え、えぇっ!?」
　さすがに、これはまずいのではないか。いや、教師と生徒がデートをすることも、見ようによってはいけないことだけれども……これは、それとは比較にならないほど悪いことではないだろうか。
　おろおろと珪と店内を見比べる綾花に、珪は内心で笑いを堪えきれずにいた。
　何故ならここは『ノンアルコール専門のバー』で、高校生である綾花も問題なく利用できるからだ。
（まあ、本当のバーでもモクテルは注文できるけど……万が一ってことがあるからね）
　何より珪は、ここまで車を運転して来ている。最近は代行運転などのサービスも増え始めたが、大切な綾花を送り届けるという役目を、他人に任せるわけがない。
「先ほど予約をした、早川です」
　素知らぬ顔をして席に着こうとする珪を、綾花は不安げに見つめている。少々天然だが、生真面目に告白を卒業まで待ってくれているような子だ。ビシッと珪を正すべきか、それとも女は度胸とばかりに入店するかと、思考を巡らしているのかもしれない。
（さて、いつバラそうかな）
　悪戯が成功した少年のような笑みを浮かべ、ずらりと並ぶシロップの瓶を眺める。きっと綾花には、おしゃれなラベルのあの瓶たちは、全て酒瓶に見えていることだろう。
「彼女には、少し甘めのブルーラグーンを。それから僕は……」
「わ、私はミルクでいいですっ!!」
　勢いよく珪の隣に腰掛けて、バーテンダーに凄みを利かせる。そんな綾花に呆気にとられたバーテンダーは、肩を震わせ始めた珪に「あぁ」と状況を理解した。
「ふ、ふふっ……」
「何がおかしいんですか！　私、珪さんに言いましたよね、お酒は大人になってからの楽しみにしますって」
「そうだね、あのときも『飲みません！』って大きな声で……あはははっ」
　笑いすぎて息苦しい。けれど、綾花がちゃんと綾花のままで良かったとも思う。
「すみません。僕にはライラを」
「もう、珪さん!?」
　一体どうしてしまったのかと詰め寄る綾花に、珪はネタばらしをする。

　――ここは、イソラ・ガレッジャンテにある、ノンアルコール専門のバー。
　未成年飲酒にも、飲酒運転にもならない、隠れ家的なお店。

「僕らに、ちょうどいいかなって」
　用意されたカクテルは、アルコールの入っていない、言わばカクテルを模したモクテルだ。
　２人にとって仮の姿なのは、教師と生徒であることか。それとも――密やかに想い合う男女であることか。
　察しの良すぎるバーテンダーは、珪の選んだカクテルの意味を見極め、次のドリンクを提案する。
「もしよろしければ、ウォッカギブソンもご用意しましょうか」
　もちろん使うのはウォッカではありませんがと添えたところで、別の客に呼ばれてしまった。
（さすが、人を観察する職業だな）
　でもだからこそ、こうして色々と代弁ができる。様子を窺うように隣を見れば、鮮やかな青いドリンクを前にした綾花が、本当にアルコールではないのかと、おっかなびっくり口をつけていた。
「甘めでってお願いはしたけど、綾辻さんの口に合うかな」
「はい！　レモンのスッキリした炭酸で、飲みやすいです。珪さんのは、どんな味なんですか？」
「これかい？　そうだな……多分、オレンジとライムのジュースだと思うんだけど」

　――今の気分だったんだよね。

　ぽつりと照れくさそうに零した珪の言葉は、まだ緊張の解けきらない綾花には、聞こえなかったらしい。
　それに一安心したような、チャンスを逃したような……妙な気持ちが珪を包む。
「綾辻さんが気に入ったなら、もう一杯頼んでみるかい？」
「まだお勧めがあるんですか？　さっきの、ウォッカ……なんでしたっけ」
「あれは僕用。綾辻さんには、キャロルなんていいんじゃないかな」
　スルスルとカクテルの名前が出てくる珪に感心しつつ、綾花は色々と質問する。
　甘いのは何か、飲みやすいのは何か。お酒が飲めるようになったとき、最初に手出ししないほうがいい物は。
　興味を示してくれることが嬉しくて、珪も流暢に語り出す。だけれど――。
（花みたいに、カクテル言葉があることは……まだ秘密かな）
　それはもう少し、いや、彼女が本当にお酒が飲めるようになる日までの楽しみにとっておこう。
　綾花の卒業は、終わりじゃないと――そう、信じて。

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