伝説の生き物には２種類ある。
　まず、赴くのが難しい土地や厳しい条件下でしか観測できなかったり、そもそもの生息数が限られるため、野生では中々見ることが叶わなかったりするタイプの生き物。
　こちらは意外と動物園や水族園で飼育研究されていることもあるが、ひとたび野生を見つけたとなったら、各種研究者がこぞって確認に集まって騒ぎになってしまう珍しさだ。
　そしてもうひとつは、創作上でしかあり得ないとされている生き物。
　もちろん、絶滅したと思われていた生き物が見つかった……などではなく、そういった生き物が生存していた化石や資料なども一切なく、架空の生き物として扱われているものだ。
　例えばそう、今またたび市動物園の上空で漂う龍のような――。

　ぱちくりと瞬いて、アーサー・Ｔ・シートンは隅々を確認した。
　頭部には鹿のように枝分かれした角。ライオンのようなたてがみに、鯰のような髭。びっしりと硬そうな鱗に覆われた長い身体は蛇がとぐろを巻くようでいて、鋭い爪のついた手足も見える。
　動物図鑑には載っていないが、別の辞典には載っていそうな……見目だけで判別するならば、間違いなくこれは龍。普通なら、驚いて声も出ないか怯えて逃げ惑うくらいしそうなものだけれど。
「さすがに龍の検診は緊張しますが……体温測定と鱗の状態から適切な餌も考えられたらいいですね」
　寝子島で起こることに、いちいち騒ぎ立てていては身が持たない。アーサー自身がもれいびなこともあり、突然龍が現れたことなど些末事のように順応していた。
　いや、これはアーサーが悟っているのでは決してない。ただ見慣れぬ動物に興味関心が上回っているのと、動物園の安全を守るために、病気の持ち込みはご遠慮願いたいという生真面目さがなせる技だ。
　それを証拠に、さっそくと用意し始めた動物の往診セットはどの生き物の物を持っていこうかと真剣に考え、協力のお礼に渡す餌は何がいいだろうかと思案する様子は浮き足だっている。
（未知の生物ですし、想像と違う点が判明しても不思議ではないですね）
　お酒より果汁を好むかもしれないし、ああ見えて意外と臆病な可能性もゼロではない。似ている動物を数種類思い浮かべながら、アーサーは柔軟な対応を心がけようと微笑んだ。



　あれもこれもと必要物資を荷台に積んで、アーサーはピクニック広場へと向かった。
　遠足の小学生など、団体のお客様がくつろぐことのできるスペースだが、この広さをもってしても、あの巨体を全て受け入れる広さはないだろう。しかし、身体の一部を診るだけなら問題なく行えるはずだ。
「こんにちは！　本日は、またたび市動物園にご来園頂き、ありがとうございます！」
　大きく手を振ってみると、龍はチラリと目線を寄越す。けれども、龍はある１点を見つめて困り顔だった。
　賢い生き物だと思っていたが、人語が伝わらないのだろうか。気配は察知してくれたようだが、上空にいられたままでは検診どころではないし、どうしたものか。
（あちらは……オオカミのほうですね）
　園内の地図が頭に入っているアーサーは、龍がどこを見ているのか察しが付いた。遠吠えこそ聞こえてこないが、大方リーダーのクルトは見慣れぬ大きな生き物に警戒していることだろう。
「うーん……」
　動物の直感は人間よりも鋭いといわれているから、もし本当に危険であれば他の生き物も宿舎で丸まったり、混乱から鳴き喚くこともあるはずだ。けれど、それはほんの気の弱い性格の生き物ばかりに見られ、数少ない飼育員で対応できている。
　現に、アーサー自身が上空を見て大丈夫だと感じたのだ。きっと、この龍には悪意はない。
（まずは、クルトたちの緊張を解くのが先ですね）
　ここで飼うことになるにしろ、何か困りごとがあって協力を求めてきたにしろ、検診を受けてもらうのは絶対だ。でもその前に、動物園に住まう生き物が穏やかでいられないのなら、彼らを守る使命がある。
　ゴトゴトと重い荷台を押し、アーサーはオオカミたちのもとまで向かうことにした。



　アーサーが辿り着くと、岩場に上って空を睨み付けるクルトの姿があった。
　吠えることも唸ることもせず、飛びかからんばかりに興奮状態でもない。ハイイロオオカミたちは、突如現れた龍に驚いているというより、訝しんでいるようだ。
　ピリピリという空気が流れるが、じぃっと見上げるクルトを視認する龍にも、また敵意はない。
　咆哮のひとつもあげず、長い身体を暴れさせるようなこともなく。大人しくしている時点で察する物はあるのだが、生き物としてのプライドなどもあるのだろう。
　隙をつかれるものか、真に信じて良いものか。そんな動揺が２匹の間を流れているようだ。
　一昨年までリーダーを務めていたロボは、お手並み拝見とばかりに気のない素振りで寝たふりをしているが、耳を傾け気配を窺っているし、ビアンカとブランカは幼子たちを押し込んだ宿舎の入り口前に立っている。
（クルトたちも、縄張りを荒らすような相手ではないと理解はしているようですが……）
　安心しきることもできない、というところか。
　ひとまずこれなら、大きな騒ぎになることもないだろう。アーサーはホッとひと息を吐くと、荷台の中からクルトの好きなおやつといくつかの検診道具を持って檻の中に入った。長く付き合いのある子らばかりではあるけれど、いつもと違う状況下にいる彼らは、大人しく従ってくれるだろうか。
「クルト！」
　できるだけ普段通りに声をかけ、アーサーは合図を送る。感覚の優れる動物は、お気に入りの飼育員が近づいてくるのを匂いや足音などで察知し歓迎することも多い。しかし、それは安心しているからこその反応だ。
　体調不良であったり、仲間と揉めて気が立っているときには寄ってこないこともあるし、決まった時間の検診を嫌がってしまうことだって、人間と同じようにある。
　ただでさえ異常事態。肉食獣への接し方を間違えれば、アーサーとて怪我で済むかどうか。
「――クルトっ！」
　それでも、アーサーはぴしゃりともう一度名を呼んだ。例え相手がハイイロオオカミたちのリーダーでオスのαだとしても、動物園に住まうならば従うべき相手がいることを教えてきた。
　いつになく真剣な気迫がクルトにも伝わったのだろう。龍とアーサーとを見比べて、クルトは渋々と岩場から降りてアーサーの元へとやってきた。
「お忙しいところすみません。少しお手伝いをして頂けませんか？」
　何の話だと言いたげにアーサーの周囲を探っていたクルトは、ウエストポーチにおやつが入っていることを嗅ぎ当てる。これをつけている時のアーサーは、遊んでくれるときと健康チェックに協力してほしい時のどちらかだ。
　少なくとも、クルトたちにおやつをあげようと思って来てくれていると認識しているが、それにしてはポーチの数はいつもより多いし、種類も嗅ぎ慣れない物があるように思ったのだろう。
　訝しげにポーチを嗅ぐと、クルトはアーサーと交互に眺めて意図を聞き出そうとする。
「あちらのお客様に、お手本を見せてあげてほしいんです」
　この道具を使って何をしようとしているか。そして、協力すればどんな良いことが待っているか。
　懸命に説明するよりも、見せて説明すれば理解してもらえる可能性は上がる。そう考えて、色々と準備を整えてきたアーサーは気合いを入れるように笑って見せた。

　アーサーの顔を、クルトが舐める。こうして戯れられて、初めてアーサーは緊張していることに気がついた。
「大丈夫ですよ、クルト。私は元気ですってば……こら、あははっ」
　仲良く戯れる様子を、オオカミたちはいつものことかと生温かく見守っていて、上空の龍もまた、ほっこりとした顔で眺めている。
　その様子に、クルトも張り詰めていた緊張を緩め、上手くお手本（？）を見せることにする。
　友であるアーサーが認めたのならば、龍もまた、動物園の仲間だと言うように。