竜に乗ってどこまでも！新春☆初夢フェア２０２４～鷹編～｜リアクション

竜に乗ってどこまでも！新春☆初夢フェア２０２４～鷹編～

　耳元に聞こえる小さな鼾が愛おしくて、厭わしかった。
　眠りから引きずり上げられるまま、重たい瞼を薄くもたげる。
　裸の腰に巻き付けられた、己よりも体温の高い男の腕に指先で触れる。
　暗い天井があった。
　幾度目かの天井は、初めて男の肩越しに見たときよりも薄汚れて見えた。初めてのそのときは、心を高揚感が満たした。眩暈がするほどの快楽があった、男が妻よりも己を愛しているのだという優越感があった。男が己と『こういうこと』をしているとも知らずに日々を過ごしている妻に――あの女に対するほんの僅かな罪悪感は、男の体温と筋肉の軋みを感じる引き立て役にしかならなかった。
　耳朶に触れる男の息が厭わしくて寝返りを打つ。寝惚けたように抱き寄せようとする腕を振り払うように身体を起こす。
　ベッドが軋む。
　サイドテーブルの目覚まし時計のデジタル文字が薄緑の蛍光色に光っている。目覚ましが鳴るようにセットされているのは、朝の早い時間。おそらくは、彼の妻が起きる時間。
　もう何年も妻とは夜を共にしていないと言っていた。
(……嘘)
　ベッドのシーツには、男の匂いとは別の甘い匂いが染みついている。
　目覚まし時計の脇に放り出された煙草の紙箱を手に取る。鼻に触れるのは、メンソールの冷たくも甘い匂い。
(知っているけど、ね)
　寝乱れた髪を手櫛で撫で付け、煙草を一本取り出す。箱の中に押し込まれていたライターを引き出して火をつける。
　伏せた瞳に火の赤が染みた。乾いて嫌な味のする口の中と喉をメンソールの香が犯してゆく。
　よく知る香で肺を満たしていて、ふと気が付いた。
　これは、夢だ。
　メンソールの煙を唇から吐き出す。夢であると理解していて、時計の傍に置かれた灰皿で煙草の火を消す。夢であると分かっていて、
(……でも)
　心臓が痛むほどに轟いている。
　傍らに己と不義を犯した男が寝ていて。
　光の差さぬ真夜中に起き出した己がいて。
　夢であるからこそ、この後の出来事が容易く想像できた。
　裸の胸が冷えた。メンソールの匂いが染みついた指先も、男の体温に慰められていたはずの裸足も、何もかもが冷たく凍り付いてゆく感覚があった。
　尻をつけたベッドの下に、あれがいる。
　夢であるからこそ、間違いなく、あれはベッドの下に潜んでいる。
　せめてもシーツを身体に巻き付ける。鼾をかく男を起こすことなど頭の端にも浮かばなかった。そもそも、振り返ったところで男がまだ居てくれているとも限らない。
　振り返ることすら怖かった。いないことを確認するよりも、いるかもしれないと信じている方が楽だった。
　それなのに、
(どうして)
　己は今しもベッドの下を恐る恐る覗き込もうとしているのだろう。
　あれがいると確かめようとしているのだろう。冷や汗が滲む、息が乱れる、心臓が轟く。
　こんなに怖いのに、どうして瞼を閉ざさないのだろう。見定めようとするのだろう。
　煙草の香の残る息を吐き出す。
　ベッドから降りる。冷たい床に冷たい爪先をつけ、膝をつく。
　汗の滲む掌でベッドに被さるシーツをそっと捲って、――ベッドの下の暗闇に、金色に光る猫の眼を見た。
　暗闇に赤く光り不穏に膨らむ瞳孔を見た。目が合ったその途端、生暖かい猫の吐息を嗅いだ。
　瞬きを忘れた。息を忘れた。

　赤子の声で猫が鳴いている。
「っ……」
　水槻清恋は跳ね起きる。途端、がしゃん、とベッドサイドの灰皿が跳ねた。無意識に振り回した手が当たったのだと気づいたときには、灰皿を埋めていた煙草の吸殻が無数の灰と共に宙を舞っていた。
「最悪」
　カーテンの隙間から入り込む朝の光に灰と吸殻で汚れた床とシーツを照らし出され、思わず呻く。夢見も最悪、寝起きも最悪。
(恐怖で人間は死ねるわね)
　恐ろしい速さで脈打つ心臓を片手に抑え、床に落ちた煙草の紙箱を拾い上げる。片付けなど後回しにして、煙草に火を点ける。
　にゃおう、と窓の外から聞こえる猫の声に耳を塞ぐように紫煙を吐き出す。冷たい頬を煙草の匂いが染みた掌で抑える。指の間に見えるのは、服も脱ぎ散らかしっぱなし、いつ飲んだかも忘れた缶ビールの空き缶も転がりっぱなしの散らかり放題の部屋。
　煙草をくわえ、布団から出る。ソファに掛けた下着とシャツを拾って風呂場へ向かう。
　夢に魘されようが汚れた部屋が更に汚れようが、大嫌いな猫の声にたたき起こされようが、
(今日も仕事よ)
　寝子島警察署刑事課に所属する清恋の朝は早い。