何故こんなところに旅館が？｜リアクション

何故こんなところに旅館が？

　京極花音が坂を上り切ると、そこには立派な旅館が建っていた。どうやら温泉旅館のようで、日帰りもできるというような内容の看板が立っていた。
　非日常な光景にぼーっとしていると、スーツ姿の男性が歩み寄ってきた。
「お疲れ様でございます、京極様ですね。本日はありがとうございます」
　何故か名前を呼ばれ、驚く。
「なんで、俺の名前を」
　近づいてきたのはスーツの男性で、何やらバインダーに挟まった書類を手にしている。
「ご宿泊の予約をされていますからね」
「は……！？」

　○

　
（近所のスーパーの特売のために出てきたのにその途中で旅館へお泊りってどういうことだよ）
「こちらが船の間でございます。どうぞ」
　オートロックのドアが開くと玄関があり、障子が見えた。襖の向こうは和室だろうか。
「船の絵でも飾ってあるんすか？」
「いえいえ」
　スーツ男性はにこにこと笑い、靴を脱いで襖をゆっくりと開いた。
「！？」
　ごおおっという水音、水しぶきが花音の顔にかかった。和室だと思われたそこには水流が渦巻いており、部屋の中心には木で出来た大きな船が浮かんでいた。そこに続く細い桟橋、揺れてはいるが、係留されているのか、船はその位置から動かない。
「御食事はお食事処で召し上がって頂きますので、布団は敷かせてもらいました。ご了承下さいませ」
　船をよく見ると、左側にテーブルと座椅子、右側にはシワ1つない千鳥格子模様の布団が敷かれているのが見えた。
「いやいやっ、絶対寝れないっすよ」
「今まで泊まられたお客様はぐっすり寝られた、と」
「気絶したとかじゃないんすかね……？」
「ごゆっくりお過ごし下さいませ」
　彼は簡単に説明すると、部屋を出て行った。
　桟橋を渡って船へ向かう間も水しぶきは止まず、しかしギリギリ体にかからないように調整されているようだ。
「うわっ」
　あまりの水のうねりによろけてしまう。
「どういう状況だよ。夢ならすぐに寝たほうが良いか？」
　布団へ視線を向けるが、今日はそれなりに汗を書いているし腹も減っている。
　そこで思い出した。食事を部屋に運ぶことも出来る、と。
　内線電話が手の届くところにあったのでフロントにかけて見ることにした。
『はい、こちらフロントです。ご要件は何でしょうか』
「あー、えーと。夕飯部屋に持ってきてもらえるんすかね？」
『もちろんでございます。では準備はよろしいでしょうか』
「え、準、え？」
『スタート！』
　見ると天井からゆっくりと刺し身が降ってくるところだった。
「いや、待て！　あ、電話切れてる！？」
　落ちてくる懐石料理を、口でキャッチするゲームが始まった。
「クソ！　勿体ねぇ！」
　1つも落とすわけには行かない。
「うぉおおおっ」
　全力を使い果たした花音なのだった。

　結局、花音は深夜に大浴場「海」へと来ていた。
「ふぃー」
　広い浴槽に一人で浸かりながら、天井を見上げる。いい湯だった。気持ち良い。
「はぁ、最高だな」
　完全に浴槽と同化している海は太陽に照らされてキラキラと光っている。深夜なはずなのに真っ青な空だ。
水平線が見える大浴場と言っていたが、比喩や絵ではなく本当にそうだ。沖に行き過ぎると帰れなくなるらしい。
（怖すぎるだろ）
　それはそれとして、温泉は良いものだった。日帰り温泉というのは行ってみても良いかもしれない。そんなことを思いつつ、大浴場から出たのだが。
「あら、お花屋さん？　こんばんは」
「あぁ、こんばんは」
「ふふ、偶然ですね！　ではまた〜」
　浴衣姿の女性、暁月静は笑顔で手を振って女湯へ入って行った。
　いつものノリで会話してしまったが、
「…………え！？」
　他の誰でもない、花音の想い人だった。
　偶然、なのだろう。ここは寝子島のどこかなのだから。

このページにイラストを設定する