11月27日　日曜日・その二

　午前十時、桜花寮を出た小山内 海は「シルキー」へ向かった。店の前では、既に御剣 刀が待っていた。
　海はクロッキーの最初の方のページをめくった。
『おはよう』
　それから、新しい方のページをめくる。
『わざわざ出てこなくても。これからあっちに行くのに』
　今日の最終目的地は旧市街。刀の家も旧市街である。
「いや。二人で祝うと決めたんだから、ちゃんとケーキを買うところから一緒にやらないと駄目だ」
　クロッキーを覗き込み、刀はきっぱり言った。海は呆れたが、こうと決めたら意思を曲げない彼の性格を知っているので、海もそれ以上は何も言わない。
　予約しておいたケーキを受け取ってから、バスに乗る。
『家に寄る？』
「いや、大丈夫だ。ちゃんと持ってきた」
　体の前に回したリュックを軽く叩き、刀は頷いた。準備万端、抜かりはない、という顔だ。
　それならばと、二人は真っ直ぐ目的地へ向かった。
「いらっしゃい！」
　チャイムを鳴らすと、満面の笑みで橘 千歳が迎えてくれた。
　海はクロッキーのページをめくった。
『誕生日おめでとう！』
「おめでとう」
「ありがとう、二人とも！　上がって！」
　三和土には、サンダル以外の靴がない。妙だな、と思っていると、察した千歳が苦笑しながら言った。
「今日は私の誕生日で二人がお祝いに来ると言ったら、大家さんがね、急に用事が出来たって。他の部屋の人たちも追い立てるようにして、バタバタと出かけちゃったのよ」
「それじゃ、今日は俺たちだけか？」
「ごゆっくりだって」
「気持ちはありがたいが、そんなに気を使うことないのにな」
　それでも、周囲を気にせず騒げるのはいいかもしれないと刀は思った。
　千歳の部屋には、フライドチキンやポテト、ピザ、それにジュースが用意されていた。海たちがケーキを買っていくと伝えたら、他の食べ物は自分で揃えると言って聞かなかったのだ。
　ケーキの箱をテーブルに置き、海はバッグからラッピングされた袋を取り出した。
『プレゼント。ポニーテール用のリボン』
　海は、次のページをめくった。
『普段はポニーテールにしてるでしょ。だからそれ用のリボンにしてみたの』
　今日は日曜ということもあり、千歳は髪を下ろしていた。
「ありがとう。……綺麗ね。嬉しいわ」
『ね、折角だから私が結んでもいい？』
「やってくれるの？　うん、お願いするわ」
　海は千歳の後ろに回って膝立ちになると、持ってきたゴムで彼女の髪をくくり、次にプレゼント用のリボンを結んだ。シフォン素材の淡い茶色のそれは、緩く巻いた髪と相俟って、千歳をふんわりした雰囲気の少女に仕立て上げた。
　上手く結べたのと、想像通りの可愛らしさに、海は満足げである。
「あー、取り込み中悪いんだが」
　女子二人の世界に割り込むのが申し訳なく、恐る恐る、といった風に刀は手を挙げた。
「俺も、あるんだ。プレゼント」
　刀がリュックから出したのは、飾り気のない真っ白な紙袋だった。しかも口は「thank you」と書かれたテープで留めてある。
　中身は、貝の髪飾りとイルカが描かれた合皮の財布だった。
「千歳の髪は綺麗だからそのままでも良いんだけど、だから飾っても良いだろうと思ったんだ、けど……考えることは一緒だな」
「こういうのはいくつあってもいいし、自分で買うとデザインが偏っちゃうから……とても嬉しいわ」
　千歳は、貝の髪飾りを愛おしげに指先で撫でた。刀は襟首の辺りをがりがりと搔きながら、
「そういうのよく分からないからさ……でも財布は可愛いだろ？　こういう機会でもないと、替えずに延々と使っちゃうだろうし……えっ、そういうの俺だけ？」
「そうね。本革とか長く使えるものは長く使うけど、そうでなければ、壊れたり、気に入った財布があれば替えちゃうかもしれないわね」
「へえ……女子はそうなんだ……。って、海、何で怒ってるんだ？」
　海はスケッチブックに手を伸ばし、さらさらと書いて刀に向けた。
『刀だけ二つもずるい』
「ずるいって……どっちもいいと思ったし、これそんなに高くなかったし。二つで三千円だぞ」
　これを見つけたときは、実にいい買い物をしたと悦に入ったものだ。
　海はまたスケッチブックに何か書いて、今度は千歳に見せた。さっき刀に見せた膨れっ面は、綺麗さっぱり消えている。
『私に何かしてほしいことない？』
「何かって……何でも？」
　こくり、と海は頷いた。
「してほしいこと……一日妹とか――ごめん、忘れて」
　末の子が、妹や弟を欲しがるのはよくあることだ。千歳も同じだったが、さすがにこの年になれば、そんな気持ちもなくなる。今のは、昔欲しかったものが口からちょっと零れただけだ。
『千歳お姉ちゃん？』
　海はスケッチブックにそう書くと、上目遣いで〝お姉ちゃん〟の顔を覗き込んだ。
「可愛い……」
　ぼそりと呟き、千歳は海をぎゅっと抱き締めた。それから頭を撫でる。
　にっこり笑って、海も抱き返した。彼女もまた、姉がいたら、とかつて子ども心に想像したことが何度もある。
　互いに相手の頭を撫でていると、刀がじ……っとその様子を見つめていた。見つめるというより、観察と言った方がいいほどの凝視であった。
「……刀くん？」
　気恥ずかしくなって、千歳は声をかけた。
「――ああっ、いや、すまない。俺のことは気にせず、続けてくれ」
「……そんなに見ていたいの？」
「そういうわけじゃ」
「気配を消してまで？」
「……すみません」
　気配を消すのは、剣術修行で鍛えた技術である。それはもう大変な修行であったが、それについては割愛する。
『刀はまた今度ね』
「今度って……俺の誕生日、とか？」
　海が頷く。
「つまり俺の誕生日に海が何でも言うことを聞いてくれるのか！？　本気か！？　分かった、大人しくしてる！」
　刀は部屋の隅に行き、正座をした。二人に背を向けて。
「さあっ、俺は見てないから遠慮なく続けてくれ！」
「遠慮なくと言われても……」
『そろそろケーキ食べる？』
　十分に疑似姉妹も堪能したことだし、と海はケーキの入った箱を指差した。
「そうね。――刀くん、ケーキ食べるわよ」
　自分への命令だと解釈し、刀は渋々立ち上がった。二人のいちゃいちゃを、もう少し背中で感じていたかったのだ。
　ケーキを箱から出し――ショートケーキだけでなくムースやチーズケーキなどがホールを形作っている――、小さな蝋燭を十八本立てる。
『ろうそくだらけ』
と書いて、海は笑った。
「本当ね」
　千歳も釣られて笑う。
　海に突かれ、刀はこほんと咳払いすると、ちょっと嫌そうに「ハッピーバースデートゥーユー」と歌い出した。緊張のせいか、お世辞にも上手いとは言い難かったが。
　海は苦笑を噛み殺しながら、指揮者よろしく手を振っている。
　やがて歌い終わると、どうぞ、とばかりに刀はケーキに手の平を向けた。吹き消せ、という意味だと悟り、千歳は大きく息を吸うと、口をすぼめてそれを吐き出した。
「あ、あれ？」
　一本だけ小さな炎が揺らめいている。まるで十七歳を惜しむように。
　もう一度息を吸い、今度はその一本だけに吹きかける。
　さようなら十七歳。こんにちは、十八歳。
「二人とも、今日は本当にありがとう」
　この先、たとえ三人が離れ離れになったとしても、今日のこの日は忘れないだろうと千歳は思った。