秋。寝子ヶ浜海岸。｜リアクション

秋。寝子ヶ浜海岸。

　秋に心躍るイベントやら風物詩は多いが、同時にアンニュイに陥りやすく繊細な季節でもある。
　月原想花はわだかまる黒い感情と共に外へ出た。謎の抽象画が描かれたダサイロンＴ。何の工夫もない黒のスキニーにパーカー。胸の奥にくすぶる暗い熱。重たい足取り。全てが気分を下降させる。
　忘れていた過去など取り戻してどうするのか。なぜ忘れたままでいさせてくれなかったのか。臆病ながら無垢な頃に戻りたいと切に願う。
　もちろんそれは、叶わない。
「滴さん……」
　落ち込んだ時に縋ることができる確かな支柱を、今の想花は持ってなかった。するりと解けてどこかへいってしまった。彼女は実に、気まぐれだから。想っても伝えても、すり抜けてゆく。
「……？」
　まとまらない思考に翻弄されながら歩くうち、空に奇妙な影を見つけた。ひし形、翼持つ鳥のような形、魚の形、いろいろな影が太陽を背に泳いでいた。
　ことりと胸の中の何かが動く音が聞こえた。知らず影を追い、歩き始める。
　やがてたどり着いたのは、寝子ヶ浜海岸だった。色とりどりの人だかりが、色とりどりの凧を揚げていた。カイトフェスティバル、という催しらしい。
「…………」
　なるほど、凧揚げ大会だ。凧たちはまるで生き物のように空をたゆたう。糸を引かれれば左に右に揺らめき、風にそよぐ喜びに耽溺しているかのようだ。
　想花の感情もまた揺らぐ。それを言葉にする術を想花は持たないが、強いて言えば憧れに近いだろうか。
　無生物への憧れ。物言わぬ路傍の石にでもなりたかった。感情も意思も持たぬ貝のごとき何者かになりたかった。凧もいい。あれほどに心地よさそうに空を泳いでいればそれでいいのだから、さぞかし楽だろう。
　ああ、凧。なんて羨ましい。空を思うさま泳ぎ、そうでない日は眠っていればいい。退屈することもないだろう、ものを考えることさえないのだ。
　などと人間らしい思考にとらわれていたら、声をかけられた。
「興味がありそうですね。ぜひやってみませんか、カイト」
「えっ？　いえ、ぼくは」
「さあさあ遠慮なさらず。大丈夫、スタッフが懇切丁寧、レクチャーして差し上げますから」
「え、あの。はあ」
　少々強引な口ぶりに、押し切られてしまった。断り切れない自分を嫌悪し、ますます気が沈む。

「ああ。凧だ……」
　入門用にと渡されたのは、なんとかいう特撮ヒーローの写真がプリントされた、子ども用のスポーツカイトというものだった。扱いが易しく、風さえあれば簡単に揚げることができるらしい。
　左右二つのハンドルを握らされ、砂浜に置いたカイトを引く。
「む……」
　揚がらない。誰でも簡単に、という話だったのに。
　困った様子のスタッフの言葉に従い二度、三度とトライする。揚がらない。なぜだ。あちらの子どもなどはいとも簡単に舞い上がらせているのに。
「あがれ。あがれ……」
　いつしか夢中となった。揚がれば何かが変わるとでもいうように。飽くことなく幾度も幾度も、ラインを引いた。
「わっ？」
　唐突に背後から、何もかも吹き飛ばすような突風が吹き抜けた。砂も大地も海も凧も、全てさらうかのような強い風だった。
　気づけば舞っていた。空高く気流に乗り上げ上昇する様は、あたかも滝上りだ。ぐんぐん、ぐんぐん上がっていく。あからさまにほっとしたスタッフさんの声ももはや届かない。想花は何しろ、雲にも届くほど空の高みを泳いでいたから。
　例えば。例えばそう、自分が路傍に転がる石くれの一つであったなら、こうも清々しく見上げることができただろうか。意志もなく、感情も揺らがぬ存在であったなら、こうも……砂浜をむやみやたらに駆けめぐりたくなったり、風を捕まえて翻る凧の爽やかに自身を重ねたり……そんな気分を味わえただろうか。
　過去は消えない。けれど思い出もまた、残り続ける。
　想花は少しばかり晴れた心で、砂を空まで蹴り上げた。

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