しあわせのおすそわけ｜リアクション

しあわせのおすそわけ

　桃の優しい香りにはリラックス作用があり、幸福感を得られやすい。
　これは、ほおずき市にどんな香りで行こうかと調べ物をしていたときに、たまたま知ったこと。まだアロマを楽しむのも趣味の範囲を出なかった稲積柚春には、ちょっとした豆知識だった。
（リラックス作用ってだけなら、他にも色々あるはずだけど）
　なんとなく進路を定め始めた柚春は今、アロマ関係の資格を取得するために勉強している。元々バスボムや保湿オイルなどを手作りしていたので、ある程度の知識はあった。けれど、これが代替医療として通用するとは考えたこともなくて、資格に関して考え始めたのもごく最近だ。
（医療、かぁ……）
　メディカルアロマの資格にも、上位と下位がある。特定の講座を受ければ受験資格を得られたり、下位の資格を保持してなければいけなかったりは、スクールによって様々だ。
　ひとまず在学中でも取れる資格を、とは考えて取り組んでいる物の、その先のイメージは難しい。
　先日は舞台装置の一環で香りを準備したし、香りを扱う職種となればアロマオイルにはとどまらない。紅茶も好きだし、ちょっと鼻がいいことは他の仕事でも役立つのだろう。
（香りと記憶は、繋がっているっていうけど）
　それなら、心を癒やすことも悪夢を呼び起こすこともできるのだろう。柚春は右耳のピアスを触って、記憶を手繰り寄せる。
　確か、食用ほおずきが桃のような香りをするからとベースに桃を選んで、自分の幸せはウォルター・Bと共にいるときだからと、彼が好むレモンの香りを足した。
　不思議な本に触れたときは、様々な花の香りがした。硝煙の香りも、鉄さびの匂いも……雨に濡れる土の香りも。
（……よし！）
　彼の悪夢を全て取り去ることはできなくても、苦手とする香りが増えないように。
　人は声から忘れて最後まで覚えているのは香りだけど、同じ香りを避けるのではなくて。
　今日の香りを決めた柚春は、アロマネックレスにオイルを詰める。あの時に戸惑いを見せた彼が、笑ってくれたらいいなと願いを込めて。

　ブラックウッド邸に訪れて、メアリ・エヴァンズと談笑する。
　先日借りたイギリス文化の本について質問をしながら、ウォルターの帰りを待った。
　特別彼に用事があったわけでもない。今日でないといけないこともない。それでも思い立ったら、ウォルターの幸せの香りをひとつ増やしたくて。
　玄関から音がして、メアリと一緒に出迎える。もう随分メアリと仲良くなって、そこにいることが増えた柚春を見ても、ウォルターは大して驚かなかった。
「おかえりなさい！」
　優しく香る、桃とレモンの香り。
　何かを思い出す前に、柚春の笑みに釣られるようウォルターは微笑んだ。
「ただいまぁ。今日は何をやってたの？」
「メアリさんに、この前借りた本のことで質問があって……それからね」
　夕飯の献立にひと品協力させてほしいとか、力仕事で困っていないかとか。いつも通りなことも、柚春は嬉しそうに報告する。
　この幸せが、笑顔が、伝染したらいいなと声を弾ませるから、ウォルターも耳を傾けていた。
（この香り……嫌じゃなかったかな？）
　忘れられないような辛いことも、おしえてほしい。
　消してはあげられなくても、ひとすくいの幸せと交換してあげたいんだ。
　今は違ってもいい。あとから思い出して、『あの時幸せだったな』って思ってくれたなら――しあわせだよ。

このページにイラストを設定する