十三夜の隙間｜リアクション

十三夜の隙間

　試作にと作っていた香りに微調整を加え、キャリアオイルを混ぜて希釈する。
　今回の主役は、いつものレモンではないけれど。それでも同じくらいには爽やかな林檎を思わせる香りは、気に入ってもらえるだろうか。
　今日は、十五夜と同じ場所でお月見をする日。だから稲積柚春は――メアリ・エヴァンズが好きだと言っていたシードルをイメージしたケアオイルを作って、彼女と共に温泉へやってきた。
　もちろん、メアリが主人を置いて休暇をとるわけもなく、ウォルター・Bも一緒にだ。
　入浴前には「柏手が聞こえても小窓は開けないように」なんて注意をされてしまったが、男女に分かれて温泉を楽しんだ後は、休憩室で合流する手はずになっている。
（ワットはもうあがったかな？）
　休憩室に居るはずの、愛しい人を探す。そこで彼は、お猪口を片手に日本酒の香りを楽しんでいた。
　室内だから、きっと映るのは月ではなく室内灯だけれど……月は無理に掴み取ってしまうものでもないと答えた彼ならば、風流でなくとも気にならないのかもしれない。
「……お待たせしましたっ！」
　気にならないのは、己が月を贈ったからだろうか。暗に『付き合うつもりはない』と断られたのではないか。
　そんな不安が、ないわけではない。けれど、柚春が月に手を伸ばすのもまた、月を掴みたいからじゃない。そうやって手を伸ばす己に気付いてほしいのだ。
　あの日に引かれた境界線の、ギリギリに立って手を振って。ウォルターが内側へ籠もらぬように呼びかけ続けていたけれど。その線を、ほんの一歩。いや、つま先ほどでもいい……距離を、縮めたい。
　そんな想いに気付かぬ朴念仁にはなれなくて、ウォルターは苦笑する。気付いていても、聞いてやれる優しさなんて持ち合わせていないのだけど。
「ちゃんと髪も乾かした？」
「大丈夫です！　あ、メアリさんは髪が長いのでもう少しかかっちゃうみたいですけど」
　付き合って脱衣所で待つくらいなら、ウォルターの話し相手にでもなってほしい――そう頼まれたのだと言う柚春は、そわそわとしながら小さなボトルを手に握りしめている。
「それは？」
「マッサージとか保湿に使えるオイルです。ウォルターさんは手荒れとか……」
　落ち着きない原因はこれか、とウォルターは両手をひらひらさせてみる。特に目立った荒れもなく、爪先まで綺麗な指には逆にケアの方法を聞きたくなるくらいだけれど、柚春はもう一押しとばかりに意気込んで隣に腰掛けた。
「荒れてなくても、仕事でよく使って疲れる所だろうから、マッサージさせて？」
　労ってくれる、と言われて無碍にする理由もなくて。それ以上の下心があるかは、今日の所は不問にしてあげようとウォルターは手を差し出した。
　柚春はオイルを手に取って、まずは自分の手のひらでしっかり温める。それから優しくウォルターの手を包んで、ゆっくりと揉みほぐしていった。
「……あれ」
「違和感がありますか？　肌に合わなかったかな」
「いや、そっちは大丈夫だけど……レモンじゃないんだ？」
　いつも彼女から香るのは、レモンを基調とした香りだった。何の気なしに話した日から纏うようになった香りが、己の好きな香りである前に彼女の香りだと思うようになったのは、いつからだろう。
「今日は、メアリさんに合わせて作ってきたから」
　それから柑橘系のオイルは気をつけることが多くて、と話す柚春は丁寧にマッサージを続ける。
　満ちるまでもう少しの月のように、彼女もまた零れるまで幾ばくもないかもしれない。
　そうなっても、いくらでもかわすことはできるのだけど――なぜか、不誠実な答えだけは言えない気がした。

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