九月をあなたと共に｜リアクション

九月をあなたと共に

　猫鳴館の薄暗い一室に月原想花は寝転び、薄汚い窓をぼんやりと眺めた。叩き付けるような雨ではなく、独り言のような雨音となっていた。
「……蒸し暑いんだよ」
　仰向けの状態で灰色のＴシャツの胸元を摘まむ。上下に何回も引っ張るが期待したような風は起きず、力尽きたように手は止まった。
　長い溜息を吐いた。気だるげに両腕を広げると左手の甲が壁に当たった。瞬間的に摩って横向きとなる。
　静かな雨音を背中に聞いて瞼を閉じた。寝るのかと思えば、暑い、の一言で薄っすらと目を開けた。
「……やんだ？」
　両手で畳を押し遣り上体を起こす。ふらりと立ち上がって近くにあったパーカーを拾い上げた。のろのろと羽織って部屋を出ていく。

　雨はやんでいた。黒雲は割れて青空が顔を覗かせる。
　想花は木々に囲まれた下り坂を進み、蒸し暑い、と曇った眼鏡で呟いた。
　舗装された歩道に出た。行き先を求めるように目を動かし、思い出したようにパーカーのポケットから財布を取り出した。
「千円札が一枚……」
　親指の腹で分けようとしたが増えることはなかった。
「ここはどうかな」
　膨らんだ小銭入れに僅かな期待を寄せる。掌に全部を載せて数えると千五百円弱。
「少し心配な額だけど、バイト代に手を付けるのは嫌かな」
　思ったことを口にした。行き先に悩んでいる間に首筋に汗が滲む。
「やっぱり無料で涼める図書館だよね」
　自身の言葉に納得して左手に一歩を踏み出した。瞬間、足早に通り過ぎようとした小柄な少女とぶつかった。倒れることはなかったが、数歩、横手によろけた。
　想花は即座に頭を下げた。
「あっ、ごめん」
「こっちも余所見してたから。悪かったね」
　茶色い作務衣の合わせ目を正し、猫館鳴は人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「今日は蒸し暑いね」
「そうだね。夏に戻ったみたいだよ」
「こんな日は猫鳴館にいられないよね。部屋にいるだけで汗ばんでくるし」
「そうなんだけど、もしかして同じ寮生なのかな？」
　想花はぎこちない笑みで相手の出方を窺う。
「寮生ではないけど、猫鳴館のことはよく知っているよ」
「そう、なんだ。なんか前から知っているような気がするんだよね」
「あたしも。月原さんだよね」
「え、そうだけど、どうして？」
「猫館鳴だよ。よろしくね」
「あ、こちらこそ、その、よろしく」
　疑問を顔に浮かべながら軽く頭を下げた。
「あの、鳴さんは急いでいたみたいだけど、用事は大丈夫？」
「そうよ。和菓子を食べに行こうと思って。どう、一緒に行かない？」
「えっと、ぼくは図書館に涼みにいくつもりなんだけど」
「冷たいおしるこは美味しいよ。白玉のもちもちした食感が良いのよね。店内で食べることもできるわ。涼しくて会話も弾むと思うんだよね」
　鳴が親しみを込めて笑うと右頬にエクボができた。想花に自然な笑みが浮かぶ。
「行ってみようかな」
「きっと気に入ると思うよ」
　二人は並んで歩き始めた。

「ここだよ」
　白い土蔵をアレンジしたような店舗に藍色の暖簾が掛かっていた。
　慣れた様子で鳴が先に入る。
「……高そうなんだけど」
　気後れしながらも想花は付いていった。
「こっちよ」
　鳴は手前のショーケースには見向きもせずに左手へ折れた。短い通路の先に黒い空間があり、五脚のテーブルが置かれていた。鳴は四角い窓の近くの席を選んだ。一番、小さいところで二人は向き合う形となった。
「まずはおしるこだね。宇治金時も試してみて」
　鳴は置かれていたメニューを手で押し出す。想花は適当に開いた。書かれている値段に目を見張る。
「思っていたのと違う」
「お手頃価格だよ」
　鳴の言葉に想花は頷いた。
「財布に余裕があったら、お持ち帰りもいいかな」
「それなら、きんつばがいいよ。緑茶との相性が最高だから」
　鳴の笑みに釣られた想花は、その日、一番の笑顔となった。

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