あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

「過去が体験できる？　んなバカな」
　タキシードの人物の話に高城律は呆れたような声を出した。薄笑いの顔を背けて、なんの宗教だ、と言ってズボンに両手を突っ込んだ。
　その時、律の頭に大きな手が被さり、撫でるような動きをした。突然の子供扱いに怒りの表情を相手に向けて、毒気を抜かれた。
「よくやったな、律。やはり、お前には絵の才能があるな」
「お、親父？　やめろよ！」
　父親の手から逃れると、今度は側に妹が寄ってきた。
「お兄ちゃん、おめでとう」
　自分のことのように喜んでいる。母親は優しい笑みを浮かべて控え目な拍手を送った。
「……中三の俺なのか？」

　律は壇上に立っていた。目の前には大勢の人々がいて、こちらに羨望の眼差しを注いでいる。
　律は名前を呼ばれた。無意識に近い状態で歩を進めて、風格のある初老の男性から賞状を受け取った。万雷の拍手に思わず、片方の耳を手で塞ぐ。
　両側を大人に挟まれた律は改めて拍手の嵐に包まれた。
「まさか、このあともあるのか……」
　胸元のポケットに入れていた携帯電話が鳴った。音に反応して周囲がざわつく。
　律の表情は一変した。泣き出しそうな顔を隠すかのように俯いた。
　何故か、視線の先には妹がいた。白いベッドに仰向けに寝かされ、鼻と口を塞ぐように酸素マスクが装着されていた。
「お、お兄ちゃん、来て、くれたんだね」
　弱々しい声でマスクが白く煙る。律はぎこちなく笑った。
「よく俺の携帯の番号がわかったな」
「だって、大好きな、お兄ちゃんの、番号だもん」
「そうか、そうだったな」
　律の唇が微かに震える。妹は力を振り絞るようにして言った。
「み、みんなは、だいじょうぶ、なのかな？」
「そんな簡単に、なにかあってたまるかよ。あの親父だぜ」
　妹は震える頭で頷いた。そこで力が尽きたのか。そっと瞼を閉じて安らかな寝息を立て始める。

　律はスポットライトを浴びた。周囲は暗闇で何も見えない。
「ウソに決まってんだろ！」
　一メートルに満たない光の円の中で律は叫んだ。間もなく両膝をついて項垂れた。
「……俺のせいだ。俺なんかの為に車を出して、雪道でスリップ事故を起こして」
　律は両手をついて四つん這いになった。
「俺が絵なんか描かなければ。ここで懲りてやめていれば。俺の友人が自殺する姿だって、見なくて済んだかもしれないのに」
　律はゆっくりと上体を起こして正座の姿になった。生気のない表情で言葉を続けた。
「俺は過去に戻って、絵なんかやめて……それで、どうする？」
　頭を過る疑問。目に激しい感情が宿る。
「親も友人も、俺のせいじゃないのか。過去に安らぎを求めてどうする！」
　律は両方の拳で床を叩いた。
「全部、自己満足だ！　目を背けるな！　過去の俺の罪から目を背けるな！　自分を罰し続けろ！」
　両手が壊れても構わない。凄まじい勢いで拳を床に打ち付けた。
　その果てに心底の声が迸る。
「もうやめてくれえええええええぇぇ！」

　律は荒い息で戻ってきた。正座した姿で両拳に目をやる。何も異常は見られなかった。
　側にはタキシードの人物が立っていた。中腰で差し出された手に、いいよ、と恥ずかしそうに言って自らの足で立ち上がる。
「俺って弱いよな」
「そうでしょうか」
「お前、今までのことを知ってるんだろ」
「お客様がご自身の心と戦っている姿は存じております」
　律は鼻で笑った。踵を返して入ってきたドアに向かう。
「もう、過去は懲り懲りだ」
「お客様が良い未来を迎えられますよう、お祈り申し上げております」
　律は振り返らないで、適当に上げた手を振って見せた。