"So Close"｜リアクション

"So Close"

　九月の空はラムネ色、真夏の水泡をとどめながらも、群青の八月とは色調がちがう。
　手にエコバッグ肩にはトート、肩もあらわな白いブラウス、空の色をいくらか濃くしたようなスカーチョ姿に日傘をさして、御巫時子は旧市街をゆく。

　まだ陽射しはありますが、と時子は思った。
　秋の気配もしてきたでしょうか――。
　額にはかすかに汗があるが風は涼しい。
　アンコールに応じ舞台袖から出てきたようなセミの声、これをBGMがわりに背負って三つ四つ、トンボが膝の高さを飛んでいる。
　歩むにつれ、少しずつタイムスリップしているような気分になる。
　煉瓦造りの郵便局をかすめ、傾（かし）いだ木の電柱のところで四つ辻を曲がる。
　瓦が一部剥げた木造の家、元はタバコ屋らしきシャッターの前を通りすぎる。シャッターの貼り紙はとうに黄ばんで、マジックで書いた『閉店しました』の文字も消えかかっていた。
　一生懸命ほめ言葉を探しても、『アンティークな』くらいしかなかろうか。
　でなければ『年季の入った』。
　ストレートに書けば『ボロ』。
　時子が足を止めたのは、そんな形容の似合うアパートの前だ。
　けれど時子の口元には笑みがある。
　着きました。
　踏むたび赤錆がバラバラと落ちる外階段をかろやかに昇って、目指すドアにたどりついた。
　呼び鈴を鳴らした。
「……はい？」
　溶けかけのキャラメルみたいに、あくびを半分混ぜた声がする。
　ドアが三十センチばかり開いた。くしゃくしゃだが不潔感はなく、むしろ幼子のように活き活きとした黒髪が、日なたの猫よろしくのそっと出てきた。五十嵐尚輝だ。
「尚輝先生、おはようございます」
　時子が顔をほころばせたのは愛想笑いではない。
「あっ」
　まぶしいものでも見たかのように、尚輝は顔をのけぞらせた。
「み、御巫さん……！　直接いらっしゃったんですか。連絡をいただければ駅まで迎えに行きましたのに」
「いえ、場所は覚えていますから」
　言いながら時子の視線は無意識的に、尚輝のあごから首筋のラインをなぞっている。
　尚輝先生って肌、綺麗なんですよね……近くで見るとなおさらそう思います。
　ベイビースキンというのか、赤ちゃんの肌のようにつやつやで光沢があり、真珠のようにつるつるだ。ゴツゴツしたところとか吹き出物のあとなどまるでない。根っからのインドア派でこもりがちのせいか、色だってとても白いのだ。沖縄旅行で日焼けしていたはずだが、すでに元に戻りつつあった。
　そのつややかな肌を薄あかく染めて、尚輝は申し訳なさそうに言った。
「それで……あの、御巫さん」
「はい。上がらせていただいていいですか？」
「それが、ですね……ちょっとだけ待っていただきたく……」
「お部屋が片付いていないのでしたら、ご心配なく。お掃除なら私が」
「あ、いや、あのう。実はまだ着替えていなくて」
　恥ずかしげに尚輝は頭をかいた。
　あっ、と声をあげ頬を染めるのは、今度は時子の番だった。
　戸口から見える彼の上半身は白いランニングではないか。
「失礼しました」
　慌てて背を向ける。言われた尚輝も火であぶられているように、
「す、すぐ着替えますから待っててください……っ」
　つっかえつっかえ言ってバタンとドアを閉じたのである。
　閉じたドアの向こうから、どたどたと畳を踏む音が聞こえた。
　足をもつれさせたのだろうか、転倒する音がつづいた。あと地響きも。
「先生、大丈夫ですか！？」
「は、はい、平気です～」
　もしかしたら先生は、あせるあまりズボンを前後逆にはいてしまって、脱ぐのに失敗したのかもしれない。
　足を交差させクッションの上に、ねじりパスタみたいになって天井を見ているのかもしれない。
　だとしたら――。
　かわいい、と時子は思った。

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