思ひ出語り、恋語り｜リアクション

思ひ出語り、恋語り

　夕刻とはいえ、八月のことゆえまだ外は明るい。
　しかし六月七月の、パラフィン紙を思わせる淡いブルーの空ではなかった。いずれ暮れゆく薄紫の空だ。地熱は空に吸いとられて久しく、遠くに聞こえる蝉の声だけが、まだ夏だとしぶとく主張しているような気がした。
　蝉の声のする方角に七瀬は歩む。夏を追っているわけではない。たまたまのことだ。
　好きのままでいればいい、か。
　文也との話を思い返す。
　恋人になりたいわけじゃない。それは、まちがいがない。
　でも、先生のことは想いつづけていたい。これまでもそうだった。これからも、そうしたい。
　先生が僕のことを嫌いにならないかぎり……うちは先生のことを好きでいつづけよう。
　あ、いえ――と、誰が心をのぞいているわけでもないのに、七瀬は慌て気味に一言を付け足した。
　もちろん、嫌われたくはないんやけど……。
　ジッと短い音を最後に蝉の声がやんだ。鳴き疲れたというのか、そろそろこちらも店じまいという話か。
　親指をひっかけ、バッグの肩紐を七瀬はにぎった。
　どうしよう。
　七瀬は胸の痛みを感じている。
　切ない。
　――先生のこと、考えとったら会いたくなってきました。
　許されるのならばこの場で、寝子島高校に方向転換したいくらいだ。八月でも先生は出勤のはずだし、だとしたらちょうど今ごろ、帰宅途上にあるかもしれない。
　ここから走って行けば。
　校門の前で待ち伏せすれば。
　けれども七瀬は自制した。もしかしたらと想いは募ったが、そんなことをすればそれこそ、嫌われてしまうかもしれない。そもそも、待ちに待った末にどう声をかければいいのか。『ずっと待ってたんです！』なんて、とても言えたものじゃないだろう。
　でも。
　七瀬は願わずにはいられない。
　……あの曲り角の先、ばったり遇（あ）えたりしないでしょうか。
　夏だから先生はきっと、涼しげな服装をしていることだろう。ネイビーブルーのオープンカラーシャツ、下は白地のTシャツなんて似合いそうだ。脚が長いので、ライトブルーのスキニージーンズをあわせるといいかもしれない。
　もしも願いがかなったとしたら、なんて挨拶をすればいいだろう。
　青白い月が出ているから、気取って「月が綺麗ですね」なんていうのはどうだろう。それだと意味深すぎるだろうか。
　なので七瀬はきめた、そんな僥倖があったとしたら、さりげなくこう言うことにする。
「奇遇ですねぇ」
　と。

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　テーブルを拭き終えて、とりのけておいた本に文也は目を向けた。
　七瀬くんが読んでた本、俺も久しぶりに読んでみようかな。
　気まぐれを起こして手に取ってみる。いずれも一度は読破したものばかりだが、内容の記憶はまちまちだ。ものによっては高校生当時にふれたのが最後だったりもした。
「ええと、ひいふうみいよ……」
　数えてみて改めて、七瀬の速読ぶりに舌を巻くのである。中編の『初恋』や詩集の『若菜集』ならまだしも、『谷間のゆり』ときたら上下巻の大著ではないか。
「この量、あの時間に全部読んだのか……速いな」
　文也は腕組みして本の山と向き合う。読書は本との立ち合いという人もいるが、いまはさしずめ対戦前のお見合いといったところか。
「……」
　沈思黙考する。
「…………」
　あとすこし、黙考する。
「………………」
　さらに黙考して、文也はきめた。
　よし、読むのは二冊だけにしよう。
　
　文也がどの本とどの本を手に取ったか、それは本稿読者のご想像にゆだねたい。　

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