夏の初めに｜リアクション

夏の初めに

　まとわりつく蒸し暑さを歩くことで振り払い、川沿いの堤防を進む。
　月も星も隠す雲を仰ぎ、頬に浮かぶ汗を掌で拭って宵闇に視線を巡らせれば、さらさらと流れる川面を照らして黄金の光。ふわり、ふわりと明滅しては飛び回る蛍を追うてしばらく歩き、小さな橋の上から飛び回る光の乱舞を眺める。
　水の流れる音、風が梢を渡る音、遠くから聞こえる列車の音。耳を澄ませば潮騒さえ微かに聞こえるのに、目の前を過る数十数百の小さな光たちは翅の音さえ立てず闇の中に踊る。それが不思議で、同時にひどく儚く美しく見えて、蛍たちが翅を畳んで草陰に隠れてしまうまで眺めてしまった。
　遅くなった、と深夜に帰り道を辿っていて、
(灯りがついている)
　星ヶ丘の住宅街の一角、そこだけ森のようになった植物園を仄かに照らす光を見つけた。ローズマリーの生垣の隙間、秘密基地の入口じみて小さな門扉の前にはアンティークランプと『今宵、ランプの夜　(『Oz』営業中)』と書かれた小さな看板。
　普段は夕方までしか開いていないカフェが珍しく営業を続けていることに惹かれ、ローズマリーの茂みにぽつんと開いた入口を潜る。ハーブが植えられた小規模な植物園を巡る黄色い煉瓦の小路を歩き、硝子張りの温室の前に立つ。
　テーブルや床に置かれた幾つものランプの光を反射させる硝子の扉の向こう、カウンターの中に佇む新村の姿を見つけた途端、向こうもこちらを見つけたらしかった。ひらりと手を振られ、会釈を返す。
「こんばんは……」
　他に客の姿のないカフェに入り、カウンターの端にそっと座る。
　天井やあちこちで回るファンのお陰か外よりも涼しく感じるカフェ内に、梅雨時の湿気と熱に重くなった身体を休ませる。
　冷たいハーブティーを頼むと、涼し気な空色したバタフライピーのお茶が供された。おまけです、と添えられたのは、銀色アラザンと水色アイシングに飾られたチョコミントクッキー。
　添えられたレモンを絞れば空色から茜色へと水色を変えるお茶にうっかり目を奪われてから、はたと瞬いて新村にぺこりと頭を下げる。クッキーの礼を言い、
「えと……」
　何をどう喋ろうかと僅かに迷う。
「遅い時間までやってるんですね」
「気まぐれにね、やっちゃうんです」
　でも気まぐれだからお客さんは少なくて、とくすりと笑い、新村は穏やかなまなざしを温室の植物たちに向ける。
　ファンの風に乗って届くジャスミンの甘い香、蓮池に揺れる水の香と濃い緑の香。光を閉じ込めた硝子張りの温室の中から夜を眺め、冷たいお茶で喉を潤す。
「先日はハーブの事とか教えて下さってありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそいつもありがとうございます」
　たどたどしい言葉にも柔らかく微笑んで返してくれること、
「そうだ、苺は実りましたか？」
「あ、はい。そろそろ収穫できるかと」
「キャットニップはもう少しすると小さな花を咲かせてくれますよ」
「ハーブはすぐに成長して、……驚きました」
　他に客の姿がないとはいえ話を続けてくれることがありがたくて、そうしてうち、いつの間にか少し緊張が解れた。
「あの猫好きのお友達は元気？　ほら、お子様ランチの旗に喜んでくれた男の子」
「元気です。旗に描いてあった猫のイラストがとても気に入ったみたいで」
　物件探しのあと、海岸の砂に大きな猫の絵を描いて遊んでいた。
　──チハヤ見て！　ねこ！　ねこのはた！
　猫に見えなくもない『ねこ』の絵にキャアキャアと笑い転げるユニの姿に、いくつもの物件を巡っては楽しそうにするユニの姿に、あのとき、チクリと心に引っ掛かるものがあった。それはたぶん、
(お子様ランチも、住む家も、……)
　そのために使ったお金は全て父母が預けてくれたもの。ともだちが喜んだことのそのすべてが己の力ではなかった。それが原因だ。
　心に刺さったきりの棘の正体はひとまず置いて、千早は新村に気になっていたことを問う。
「あの貸家はどうなりましたか」
「実はまだ決まっていなくて。父が、……園長が、こうなったら『ねこの庭2』として猫カフェにするとかしないとか考えてはいるみたいだけれど」

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