春のおすそわけ｜リアクション

春のおすそわけ

　行って来ます、と声を掛けると、物置状態な一階の奥でことん、と軽いナニカの転がる音がした。
　風呂敷に包んだ蓋つき容器を片腕に抱え直して奥を見遣る。作りかけで放置された箪笥や机、端に寄せてまとめただけの木材や用途の知れない飾り、まだまだ雑然とした部屋の最奥、小さなナニカたちが行ってらっしゃいと手を振ってくれた気がして、神代千早はセル黒縁の眼鏡越しの栗色の瞳を和ませた。
　元土蔵の名残である重い扉を押し開ける。途端、ふわり、柔らかな春風が頬を撫でた。玄関を出てすぐ続く、住宅の生垣や壁に挟まれた路地の空は、澄んだ朝の薄青をしている。
　扉の鍵を閉め、玄関脇の花壇の隣に置いたストロベリーポットの苺の花を確かめる。蒼海色の鉢から零れて朝の風にふわふわと揺れる、可憐な白い花。
(……不思議だ)
　花が散って、みどりの実が膨らんで、やがて紅く色づく。それがとても不思議に思えた。それがとても、美しいことに思えた。
　花を揺らす風に髪を撫でられ、歩き始める。
　鮮やかに目を惹く赤いツツジの色と甘い香や、春を待ち侘びていたかのように優しい翠の芽を吹きだし始めた紫陽花の葉の色を瞳に映すうちに、目指す家にはすぐ辿り着く。
　乾いた春の空を背に佇む古い家の前、千早は足を止めた。いつかの冬の日には固く閉ざされていた赤錆びた門扉は、今は色を塗り直されて開かれたままになっている。玄関戸まで続く前庭を覆い尽くしていた枯薄も萩も葛も今はなく、伸び放題だった松や椿も小奇麗に剪定されている。
　視線をもたげる。あの日、廃屋だったこの家の奥に見た薄紅を探すも、視界に入って来るのは静かに佇む古民家ばかり。
　あのとき見たものが、
(夢か現か)
　今となっては定かではないけれど、
(……あれは不法侵入だよな)
　『売家』の看板が掛けられていた門扉を潜る。
　風を通すためなのか、大きく開かれたままの引き戸の脇の呼び鈴のボタンを押す。玄関の戸口には、『古家』の苗字が掛かれた表札が掛けられている。
「はーい」
　奥まで続く廊下の横、こちらも開いたままの硝子戸の向こうで軽い足音がした。ひょこん、と少女の顔が覗く。
「おはようございます、神代さん」
　長い黒髪を頭のてっぺんでお団子にまとめ、着物に割烹着姿の夕が廊下を渡って玄関へとやってくる。
「おはようございます」
　孫を迎える祖母にも似た満面の笑顔に、思わず僅かに表情が緩んだ。ぺこりと頭を下げて後、
「あの……器を返しに」
　きちんと風呂敷に包みなおした器を差し出す。
「ありがとうございます、とても美味しかった」
「ご丁寧に、おおきにありがとう」
　風呂敷を受け取り、夕はますます目元を和らげる。
「おにぎり、食べられましたやろか。こん、あの子、えらい張り切ってしもて、あんな大きいおにぎり作ってからに」
「……美味しかったです」
　声にしてから、もう少し上手い言い方がなかったものかと悩む。ご近所付き合いを始めてしばらく、少しは慣れたはずなのに、未だに返す言葉に迷うときがある。
　再度礼を告げて踵を返そうとしたとき、
「さ、あがってください。あったかいええお日和ですし、お茶の一杯もどうぞ。あの子らは縁側で寝てますさかい、居間へ」
　ひらひらと手招きで引き留められてしまった。さあさあどうぞと招いた夕は、千早が家に上がって来るものと決め込んでさっさと台所に引っ込もうとしている。

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