春のおすそわけ｜リアクション

春のおすそわけ

「……」
　いつかの冬の出来事が胸を掠め、また少し困る。今は住人に招かれはいるけれど、以前勝手に上がり込んでしまったことがどうにも胸に引っかかって、靴を脱ぐ足を重たくさせる。
　玄関口でちょっと逡巡する間に、春風が先に廊下に入り込んだ。
「どないかしはりました？」
　台所の擦り硝子の向こうから聞こえた夕の声に、千早はそうっと息を吐いて迷いを追い出す。
「……おじゃまします」
　靴を脱いで揃え、久々の古民家へと足を踏み入れる。
　埃だらけだった床は綺麗に磨かれている。入ってすぐの階段を恐る恐る見遣っても、あのとき見て息を呑んだ首無し人形はもちろん無い。どこもかしこもが閉ざされて濁っていた空気は絶え間なく通り過ぎる春風に流され澄んでいる。
　あのときとは違い、どの部屋もこざっぱりと整えられている。ひとの住む生活感に溢れている。
(やはり夢だったのでは)
　ふわりと台所から漂って来る温かいほうじ茶の香に僅かに頬を緩め、台所からの夕の言葉の通りに奥の座敷へと向かう。
　襖も障子も、庭に続く縁側の雨戸も、どこもかしこもが開け放たれた座敷の入口に立てば、衝立で区切り卓袱台を置いて『居間』とした一角の向こうの縁側で並んで横になるこの家の主の背中が見えた。
「……おはよう、ございます」
　遠慮がちに声を掛けると、凡庸な顔つきの家主の日暮は寝ぼけ眼で小さく笑い、まあゆっくりして行き、と寝転がったままでひらりと手を振る。
「おはよござます？」
　横になった主の身体の影からもぞもぞと出てきたのは、黒猫の珠を片腕に抱えた幼女、こん。細い腕で不安定に抱えられるのを嫌って身体をくねらせて逃げた珠が日暮の頭によじ登るままにさせつつ、こんは卓袱台の傍の座布団を抱えてとたとたと移動し、日の当たる縁側に置いた。
「こっち」
　ぽんぽんと叩いて座れと促すおかっぱ頭の幼女に大人しく従い、千早は縁側に腰を下ろす。
「もう、昼寝はいいの？」
　隣にももう一枚座布団を置き、並んで座るこんに尋ねた途端、ぽすん、と膝にこんの頭が乗っかって来た。庭を照らす朝の光に眩し気に黒い瞳を細める幼女の額に手を翳して影を作ってやれば、柔らかな頬がくすぐったそうに緩む。
　春風に乱された髪が小さな耳や頬に触れるのがこそばゆいのか、猫のように丸く縮こめた小さな身体がもそもそと動く。掌で撫でて整えてやっても、癖のない細い髪はすぐにさらさらと頬へ滑り落ちた。
「つくもがみ、げんき？」
「うん」
　眠たげに瞼を開けたり閉じたりするこんに問われるまま、小さく頷く。
「こん、おはなみ電車、のったよ」
「僕も、……桜、綺麗だった」
「うん、きれいだったねえ」
　あのね、とこんは眠たい声で喋る。
「冬のさくら、きれいだった？」
「……あの、枝垂れ桜は」
「来てくれて、うれしかったの」
　むにゃむにゃと喋る幼女の髪を子猫を撫でるように触れているうち、こんはすうすうと健やかな寝息を立て始めた。
「ああ、お客さんのお膝借りてしもて」
　お茶と山盛りのお菓子を載せた丸盆を手にやってきた夕がくすくすと笑う。
「もう、お客さん来てくれてはるのに起きもせんと、……」
　しょうのないひと、と呟いて日暮を見つめる夕の横顔は、眠るこんの背中を擦るときのものとも、こちらにお茶を出したりお菓子を差し出したりするときのものとも、全く違う。
(叔父と姪……？)
　それほどに歳の離れたふたりの関係性が読めず、内心に首を傾げる千早に気付かず、夕はもてなしの盆を縁側に置いた。それからこれもどうぞと風呂敷包みを差し出す。中身はお菓子や漬物、蓋つき容器入りのおかずに炊き込みご飯のおにぎり。
　器を返しにきたつもりなのに、と恐縮する千早に、夕はまるきり孫をもてなすおばあちゃんの顔で優しく笑った。

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