●16：30～

　恵御納 夏朝改め夏夜は早速、用意されている材料の中から市販の甘さ程々なビターチョコを選び出した。夏夜自身の好みでもあるし、夏朝なら普通のミルクチョコを使いそうだから、その区別も兼ねている。
　そうしたら早速、ビターチョコを適当な大きさに割ってボウルに入れ、湯煎にかけた。溶かす温度が高過ぎると食感が良くないし、低ければすぐに固まってしまうから、温度計も使って慎重に。
　チョコが十分に溶けたら今度は、その一部を接着・装飾用に取っておいて、残りは概ね三つに分ける。

（この位……かな）

　高明さんは自由に作って良いとは言っていたけれど、夏夜が1人で何人分もの材料や時間を使って作業する訳にもいかない。だから1人分の作業量の目安を超えないように注意しながら、計3タイプを試作する事にした。
　まず作るのは、猫型のクッキー型に溶かしたチョコを流し入れて、冷蔵庫でそのままシンプルに固める、猫型チョコだ。オーソドックスで分かりやすく、それゆえにある意味では作り手のセンスが試されることもある、王道中の王道。
　その次には、球状に固めたチョコに猫耳風チョコをつける、縁起物・魔除けも兼ねた猫鈴型チョコを作ることにした。これは球の中に空洞のあるタイプとないタイプ、2つを作ってみる予定だ。
　と言っても、両者の工程は途中まではほぼ同じである。夏夜は特設会場で買っておいた球状チョコを半球ずつ作れるチョコ型を出して洗うと、まずは片方の底にビターチョコじゃないチョコペンで、鈴の穴を模した模様を描いた。
　次にそのチョコ型に、1組はそのままたっぷりと、もう1組は少なめに、湯煎したチョコを流し入れる。少なめの方はさらにその真ん中に、小さな球を入れてドーム型になるようにした。
　チョコ型は猫耳型の元にする分も含めて、少し多めに作れるよう用意してある。それらすべてにチョコを流し入れたら、とんとんと軽く振動を与えてチョコの中の気泡を可能な限り抜いた。
　そこまで作業し終えたら、次は冷蔵庫で冷やす工程だ。3種類のチョコ達を大きめのバットに並べて乗せて、冷蔵庫の中に収めたら後は、固まるまで待つのみである。
　これなら1時間くらい冷した方が良いね、と高明さんが言ったので、夏夜はブースを出ても問題ないか確認してから、特設会場をぶらぶら見て回ったり、ベンチに腰掛けて行き交う人を眺めて時間を潰した。そうして1時間ほど、18時を少し過ぎた頃にブースに戻ると、ちょうど高明さんと話していた志鷹 若菜と目が合う。
　何となくぺこっと頭を下げて、夏夜は冷蔵庫へと足を向けた。やって来た理子に冷していたチョコを出してもらって――衛生面や安全面の問題で、冷蔵庫やオーブンへの出し入れは高明さんか理子に頼む事になっている――作業台に置いてから、次の作業に必要な道具を用意する。
　そんな夏夜のチョコを失礼にならない程度に見つめながら、若菜は胸の内にある悩みを相談する良いタイミングかも知れない、と考えた。悩み――即ち、今年のバレンタインチョコをどうしようか、という事。
　実の所、多忙でバレンタインの事をすっかり忘れていた若菜である。今日もまったく別の目的でシーサイドアウトレットを訪れた彼女は、買い物を終えた帰り際にバレンタインの特設会場を見つけて、もうそんな季節なのかと驚いたものだ。
　考えてみればもう2月、日付を日付としては認識していても季節としては認識出来ないうちに、いつの間にか世間は動いていたらしい。となればこの機会に色々見て回ろうと、特設会場内を見て回っていたら見慣れた店名を見つけて、これは、と挨拶に訪れたのだった。
　閑話休題。
　バレンタインチョコのアイデアについて、会場を見て回るうちに『これ』というイメージは、何となく出来ている。濃厚チョコブラウニー。ビターに作ればお酒にも合い易いから、お酒を嗜む弟や――大切な相手、へ贈るのにも良さそうだ。
　が、美味しく作るにはどうすれば良いのか、ちょっと悩んでいる所だったのである。高明さんはパティシエなのだからお菓子作りに関してはプロ中のプロだし、この教室では相談のみでもOKなようなので、何か良いアドバイスを貰えないか相談してみたかった。
　あの、と若菜は知らず伏し目がちになりながら、高明さんに切り出してみる。

「お酒に合う、ビターで濃厚なブラウニーを作ってみたいのですが、何かコツはありますか？　弟と、お酒が好きな大切な方に贈りたいと思いまして……」

　そう紡ぐ若菜の頬は、ほんのりと朱に染まっていた。そんな若菜に微笑んで、そうだね、と高明さんが少し考えるような仕草をする。
　それをBGMのように聞き流しながら夏夜は、固まったチョコを型から取り出した。そのうちの1つ、球の中が空洞になっているチョコを手に取って、少しずつ切り猫耳型に整形していく。
　それが出来たら、次は残しておいた湯煎チョコをビニール袋に入れ、端を切ってチョコペンにした。そうしてまずは空洞のない方の球状チョコに猫耳型を接着し、猫鈴っぽい装飾をつける。
　もう1つの空洞ありのチョコレートは、ドーム型の片方に小さい星型のお菓子を2～3個入れたら、もう1つのドーム型チョコを被せて上下２つ合わせて接着し、球状にした。後はこれにもさっきと同じように猫耳型を接着し、猫鈴っぽい装飾をつけたら、どちらももう一度冷蔵庫で冷やして完成だ。
　少し離れて全体を見て、猫耳や猫鈴の位置が大丈夫か確かめたら、今度は先ほどより短めに冷蔵庫へ。相談中の高明さんの代わりに、理子がパタパタ駆けて来て、一緒に確認しながら冷蔵庫の中へ夏夜のチョコを入れる。
　それを目の端で見つつ、若菜は貰ったアドバイスを忘れないよう、手帳に手書きでメモを取った。それからふと思いついて、別の質問もぶつけてみる。

「ブラウニー以外に、お酒に合いそうなチョコレートでお薦めはありますか？」
「そうだね……お酒を使ったチョコレートは大体合う事が多いかな。後はブラウニーに限らず、カカオが多めの苦いチョコレート……だけど、この辺りはもうその人の好みだね」

　若菜の質問に、高明さんはそう言って肩を竦めた。甘いチョコをつまみに飲むのが好きな人も居るし、チョコ単体ではなくナッツなどに絡めたものを好む人も居る。
　なのでこればかりは難しい、と高明さんは微笑んだ。お酒を好む人は、そのつまみにも一家言――とまでは行かなくとも何かしらこだわりを持っていることがあるから、なおさらだ。
　そうですか、と頷いて若菜はそれらの意見も含め、手帳にメモをしておいた。最終的に彼に何を贈るとしても、まったくの五里霧中よりは在り難い。
　ふと、その瞳が手帳に添えた左手を映した。小指には約束の証の華奢な指輪が煌いている――その指輪の贈り主である、もう1人の愛しい人の姿が心に浮かぶ。
　……その人は今、日本にはいない。かつてとある学会で出逢った贈り主である恋人は、現在は国境なき医師団の一員として、海外で活動しているのだ。
　そんな彼に今の自分が出来ることは、ただその無事を祈ることだけ。そうと解ってはいても、やっぱりこんな風に甘やかな空気の中では彼の優しい笑顔が恋しくて、少し切なくなってしまう。
　そして何より思い出深いのは、彼が出国する前に過ごしたあの夜。若菜の髪に触れた唇、彼に滑る様に触れられた肌で感じた彼の指先の熱……零れた吐息はいつしか甘くなって……
　思い出すうちに知らず赤面した若菜に、戻って来た理子がきょとん、と首を傾げた。

「あの……もしかして、どこか具合が悪いんじゃないですか……？」
「！？　な……なんでもないです……」

　そうして向けられた、真っ直ぐに若菜を案じる眼差しに、彼女は慌てて手を振って否定した後、羞恥を覚えて俯いた。ちら、と気になって夏朝の方も見てみるが、どうやらこちらは特設会場の中にひしめき、賑やかに行き来する人々の様子を眺めていて、そもそもこちらの会話は聞こえていないようだ。
　ほっと胸を撫で下ろし、小さく手をパタパタ動かして火照った顔を扇ぐ。ちょっと暖房に中ったみたいです、ともっともらしい理由を口にすれば、人が多いから少し暑いかもね、と高明さんが頷いてくれた。
　そうですね、と若菜も高明さんに頷いて、手にしていた手帳を大切に閉じる。ちら、と時計に目をやれば、そろそろブースの終わる時間だ――すっかり話し込んでしまっていたらしい。
　気付けば夏夜も帰る所だった。その姿に何となく会釈して、若菜も高明さんと理子に向き直る。

「今日は相談に乗って下さってありがとうございました。――今度またお店に伺いますね」
「こちらこそ、寄ってくれてありがとう。またいつでもお待ちしているよ」

　微笑む高明さんの言葉に合わせて、理子もぺこんと頭を下げた。それに若菜も微笑んで会釈して、教室ブースを後にする。



　――さあ、あとは本番のその日を待つばかり。