雪に願いを。／This bird has flown｜リアクション

雪に願いを。／This bird has flown

　その日は、出勤の時点でもう雪が舞っていた。
　――雪って、子どもの頃は好きだったけど。
　傘をさして朝衣は玄関から出る。
　大人になったら、そうでもないかも。
　ざあざあ降りの雨よりはましだけど、シャーベットのような溶けかけの雪だって始末が悪い。雪が降る日は当然寒いし、交通事情もまったくもって良くない。予期せぬ事故だって起こる。
　その予期せぬ事故が起こったのは、午後10時ごろようやく朝衣が仕事から解放されて、役所から出た直後である。
　すごく降ってる、とうんざりした気持ちで思う。
　昼食に出たころは小降りになっていたような気がするが、暗くなってみれば猛烈に降ったらしい。雪のない部分を探すほうが難しいくらいの積もり具合だ。歩いて帰るだけでも一苦労だろう。
　でも帰る。
　帰ってみせる。
　だって、と朝衣は唇を噛みしめた。
　明日はやっと、なんの不安もない休みなんだから！
　何週間ぶりだろう。そんな週末は。
　ところが運命は朝衣をあざわらうかのよう。ひどいことに風まで出てきた。吹雪ではないか。
　真正面から吹き付ける悪意みたいな風と雪に、負けるもんかと傘をつきだし朝衣は足を進めた。
　何度か押し戻されそうになる。それをこらえる。そしてまた進む。
　悲劇のヒロインとして脚光が当たってもよさそうなものだが、明かりらしいものはせいぜい、ときおり横切る自動車のヘッドライトくらいだ。
　風がやんだ。これ幸いと歩調を速める。
　ところがこれが罠だったとは、出し抜けに斜め後方から突風が吹きつけ、朝衣の傘を奪おうとしたのだ。奪わせじ、朝衣は力の限り引いたがそれが思わぬ不幸を生んだ。たたっと数歩前進する。
　足元に氷が張っていたらしい。朝衣はこれを踏み滑った。
　長靴でもないただのパンプスがなんで耐えられよう。つるっと朝衣は転倒したのである。
　あっ、と声を上げたが間に合わない。視界の隅に赤い消火栓が見えた。
　尻餅、ついで肘を固い消火栓に叩きつけるところを朝衣は想像した。
　けれど朝衣の体は誰かに支えられていた。決して太くはない。それでも引き締まった長い腕。
「大丈夫ですか」
　耳で捕らえたその声に、朝衣は聞き覚えがあった。
「ありがとうござ……」
　言いかけて止まる。やっぱり。
「……朝衣？」
　やっぱり！
「遥人！」
　朝衣の手から傘が滑り落ちた。肩のバッグも。
　無我夢中で彼女が、恋人に抱きついていたから。
　まったくの偶然、けれど運命というのもときには粋なことをするものだ。遥人もこのとき仕事帰りだったという。
　彼と会うのはいつクリスマス以来だ。観覧車の狭いゴンドラで唇を重ねた。あれからもう一か月近く経っている。今このとき、朝衣がもっとも会いたかった人が彼なのは言うまでもない。
　遥人も朝衣の背に腕を回し、ささやくように問いかけた。
「元気だった？」
「ううん」
　朝衣は首を振った。
「でも今、遥人に会えて元気……出たよ」
　彼のアパートはここの近くだ。
　もう言葉は要らない。
　何週間ぶりかで恋人たちは、情熱的に愛し合った。

　シャワーを浴びストーブで乾かして、人心地付いた。
　食卓の上にあるのはパンとコーヒー、サラダそして、世界一だと朝衣が評価しているふかふかのオムレツ。
　すべて遥人が用意してくれたものだ。短いキスを添えて提供してくれた。
　さすが本職だけあって、パンの焼き方ひとつにしたってカリッとして最高だ。自家製ドレッシングのかかったサラダも美味しい。そしてオムレツ、最初の一口だけで朝衣は夢心地になり、食べ終えるまでずっと朝衣は夢の中にいた。
「でも今日、仕事でしょ」
　ゆっくりしてていいの？　と朝衣は問う。いま思い出したような口調だ。実際いま思い出したのだが。
　調理師の仕事の関係上、土日祝は忙しいのだ。なかなか朝衣が彼と会えない理由もここにある。
　これを聞いて遥人は笑った。
「そうだ、言ってなかったな。店が設備のメンテナンスでね。今日は臨時休業、明日も店は閉めたままで、午後から店で業者と打ち合わせするだけだよ」
「ということは……！」
「明日の午後までずっと過ごせるよ。ふたりだけでね」

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