雪に願いを。／This bird has flown｜リアクション

雪に願いを。／This bird has flown

　目が覚める。
　寒い。
　しんと空気が冷えていた。重い重い寒さだ。客船の底部にいるかのよう。素肌に纏わるシーツの感触も心なしか冷たい。
　けれど三折部朝衣が寝返りを打つと、鉄の塊のような寒さはたちまち消え去った。かたわらの温もりににじり寄る。えい、と小さく声を出して猫のように身をくっつけた。
　なにを恥ずかしがることがあるだろう。微笑がこぼれた。
　朝衣が目覚めたこの場所は、彼女の恋人住沢遥人のアパートなのだった。
「ん……」
　彼女が目を覚ました気配に気づいてか、彼氏の方も目を覚ました。
「寒くない？」
「寒いね」
　遥人は応じて朝衣を抱き寄せる。
　じかに感じる彼の肌は、すべすべしていて温かい。腕にうっすらはえた色の薄いうぶ毛の、やわらかな肌触りも心地好かった。
　窓の外に目を向ける。
「やだ、くすぐったい」
　お尻を撫でてくる彼の手をぴしゃりと叩いて、朝衣は窓に目を向けた。
　カーテンの合間からのぞいているのは、一面の雪化粧だった。

　EABというのは社会福祉法人の名前で、同法人が経営する自立支援施設の名前でもある。
　引きこもりや自殺未遂者、その他社会生活に適合するのが難しい人を教育訓練し、また社会に送り出すための施設ということだったが、その実態は相当にずさんだった。
　実際は、そうした家族をもつ家庭に不安を吹き込み、高額な料金をとって対象者を拉致同然にして施設に収容、ろくな教育も訓練も与えぬまま監禁状態におき、ときどき何か理由を作っては『家族を預けている』家庭から追加料金をせしめるという一種の貧困ビジネスだったのである。
　役所勤務の過程で偶然EABの状態を知った朝衣は情報をリークし、一種の内部告発者となった。
　役所の一部は、EABの状態を知りながらこの業務に荷担していたのだ。当然、なんらかの見返りもあったに違いない。
　このとき政権中枢に大きな不正があった影響もあり、EABの件は一地方の小さな事件としてあまり大きく報道はされなかった。それでも、発覚時にEAB代表のインタビューを取ったライターの記事も表に出たりして、少なくとも寝子島においてはそれなりの話題にはなったものだ。
　朝衣は自分の行動を後悔していない。けれども期せずして渦中に巻き込まれたこと、それは事実だ。それも、予想だにしなかった規模で！
　警察、県庁、木天蓼市、厚生労働省、さらには与野党の議員にＮＰＯにマスコミ――年末どころか年が明けても、連日連夜これだけの組織がヒアリングならびに取材のため朝衣のもとに押し寄せたのである。こうなっては告発者の保護もなにもあったものではない。
　年末年始、朝衣は気の休まる暇がなかった。この間ずっと役所仕事の常こと年度末デスマーチをはるかにこえる規模で忙殺されたのだった。
　遠慮なくストレートにいうなら死にかけた。
　おかげで知られたくもない顔を知られるようになってしまった。
『すごい！　あんた有名人じゃん！　通知がとまらない……ってか！？』
　友達のよっしーこと吉野八重佳（よしの・やえか）はSNSでそう言って冷やかしてきたが、断じてそんな浮ついたものではなかったのである。
　ただ、冷やかし口調ながらよっしーが心配してくれているのは伝わった。同時期には高校時代の恩師樋口弥生からも心配するような連絡が入っている。彼女らの助けは小さくとも、厳しい環境のきわみにあった当時の朝衣には、まばゆい光明のように感じられたものだ。
　けれども乗り切った。朝衣は乗り切ったのだ。ビッグ・ウェンズデー連発のようなこの日々を。
　以上はすべて先週なかばくらいまでの話だ。マスコミは政権中枢で新たに発覚した不正の取材に視線を移し、警察や役所の動きはつぎの段階に入った。遠からず逮捕者が出るだろう。ぎょっとするような名前も、裁きの場に連れて行かれるにちがいない。

　かくして、周囲がやっと落ち着いた一月下旬のある金曜日のことだ。

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