ちょっと、ご褒美｜リアクション

ちょっと、ご褒美

●ザッハトルテ

　―――表彰台に立った時、さすがに涙が出た。

　先月行われた新体操の全日本ジュニア選手権。関東大会を勝ち抜いた篠原翠響は、何とこの大会でも見事に優勝を果たした。
　快挙と言っていい。しかしこの裏には、今までの翠響からは想像がつかないほどの努力が隠されていた。
　才能とセンスだけである程度の事はこなせてきた。けれども、それは狭い地域でしか通用しない。才能がある者が切磋琢磨する世界。新体操の大きな大会に出るにつれ、その事を突きつけられた翠響は、全日本には一切の妥協を自分に許さなかった。
　全てを、新体操につぎ込んだ。平日も、休日も。何十回やっても、完璧な技が出せるように。どれだけ疲れていても指の細部までも美しく見えるように。汗みどろになって努力した。当日は、そんな努力などおくびにも出さず、会場にいる全ての人を魅了できる演技をするために。優雅に泳ぐ白鳥は、けして水面下のもがきなど見せないのだ。
　そして。

　翠響はやってのけたのだ。白を基調とし緑のグラデーションをいれた可愛らしく爽やかなレオタード。美しい調べに合わせボールを華麗に操る様は、まるで翡翠の妖精。たった１分半の間に、翠響は会場を妖精が舞い踊る美しい森に変えてしまった。
　演技後、割れんばかりの拍手で妖精は我に返った。そして、１番高い表彰台の上で、彼女は、その全ての思いが詰まった宝石のような美しい涙を流したのである。

＊

　それからしばらくして。
　翠響の姿はやはり変わらず寝子島スポーツセンターにあった。
　今までの集大成と言える大会は終わったが、彼女の競技人生は終わらない。来年は高校進学を控えている。新環境ではさらに高いレベルを要求される事を翠響は見据えているのだ。気を抜けない、抜かない。彼女は自分がもうそのレベルの世界にいる事を自覚していた。

「さて、と」
　シャワーを浴びてハードな練習の汗を流した翠響は、スポーツセンターを出て、太陽眩しい青空を仰いだ。
　時刻はちょうど午後３時。屋内にいると気が付かないが、休日の街はまだまだ明るく、活気がある。いつもみたいにまっすぐ自宅に帰ってもいいけれど……。
「―――うん、決めた！」
　翠響は陽光の下、きらりとその艶やかな瞳を煌めかせ、足取り軽く歩き出した。街の方に向かって。

　翠響が足を止めたのは、最近出来たばかりのケーキ屋さんだった。
（ここのザッハトルテが美味しいって話なのよね……）
　可愛らしい外観のお店からちらりと中を覗くと、ショーケースにはたくさんのケーキが並び、その横にはイートインスペースがある。８割方席は埋まっていたが、まだ空きはあるようだった。
　ほんの少しだけ逡巡した。ケーキ屋さんも、ファストフードも素通りする日々。クラスの女の子達が甘い物の話で盛り上がっていても、相づちを打つ事しかできない。それが翠響にとって当たり前の生活だった。新体操をしている以上、体型維持は練習と同じくらい大切なのだ。―――でも、今日は。
「……よし！」
　翠響は意を決して店の扉を開けた。彼女を歓迎するようにカラコロとベルが鳴る。ケーキ屋特有のふわりとした香りに、翠響の頬は緩んだ。

　店内は賑わっていたが、翠響は無事ザッハトルテと紅茶を注文し、席に座る事が出来た。すぐにお目当てのケーキと薫り高い紅茶が運ばれてくる。翠響は１０代の女の子らしく、それらを前に瞳をキラキラと輝かせた。
　頂きます、と小さく言って翠響はザッハトルテを口に運ぶ。その濃厚な甘さに目尻を下げた。
「美味しい……！」
　チョコレートと杏ジャムのハーモニー。何て贅沢で甘くて……カロリーがありそうなんだろう。
　そこでハッと翠響は首を振った。今日はそんな事は考えないって決めたじゃない。これは、全日本で優勝した自分へのご褒美なんだから。思い切り楽しまないと、今まで頑張ってきた私に失礼だわ。

　翠響は心地よい店内で、ケーキと紅茶を心ゆくまで堪能する。至福のひと時。―――翠響への、美味しい美味しい金メダル。

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